私はこう読んだ ―『聖書 新改訳2017』を手にして

第5回評者 野村天路
京都大学卒業。日本福音キリスト教会連合生田丘の上キリスト教会牧師。聖書宣教会講師。

ツァウにツァウ、カウにカウ

新改訳の改訂版である『聖書 新改訳2017』が出版されました。今回の改訂では、旧新約聖書すべての節の約九十パーセントの部分に、用字用語を含む、何らかの改訂が施されていると聞いています。雑感にはなってしまいますが、新しい聖書を読んでみた感想をまとめたいと思います。
旧約聖書について
旧約聖書については、私の興味のある箇所を一か所取り上げて第三版との訳の違いを比較してみたいと思います。
「彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と」(イザヤ28・10、第三版)
「彼は言っている。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル』と」(同、新改訳2017)
この箇所は、預言者のことを、同じ言葉を繰り返して幼児に語るように語っているとあざけっているところです。新しい訳では、原語を音訳することで同じ発音を繰り返していることをわかるように表現しています。第三版の訳でも同じ表現が繰り返されていることは十分わかりますが、カタカナで表記することで、音に対する注意を促しています。もちろんそれだけでは意味がわからなくなりますので、欄外注に原語の意味を記しています。さらに、「カウ」の訳については、最近の研究に基づいて、「ひも(はかり綱)」という理解を採用しています。
この箇所は理解が難しいですし、音の問題もある「翻訳者泣かせ」の箇所です。それでも2017はできる限りの工夫で聖書本文の表現と意味を伝えようと努力していると思います。
新約聖書について
新約聖書も全体としてはわかりやすく、また読みやすくなっている印象があります。敬語が簡素化され、漢字が増えたこともよい影響を与えているように思います。新約聖書では個別の箇所を取り上げるのではなく、一つの表現を取り上げてみたいと思います。
私が読んでいて違和感を覚えたのは、「罪ありとする」(マタイ12・41、42、ルカ11・31、32、ローマ8・34、14・23、ヘブル11・7)という表現です。第三版では、すべて「罪に定める」という表現で訳されていました。はじめは、「罪に定める」という表現を避けたのかと思いましたが、調べてみると、2017でも「罪に定める」という表現は七か所に残っていました(マルコ3・29、16・16、使徒13・27、25・15、ローマ8・1、 Ⅱコリント3・9、ユダ1・15)。何のニュアンスの違いを出すために、「罪に定める」という従来の訳を避けて「罪あり」という表現を新しく用いたのか、まだよくわかりません。もちろん、「罪ありとする」という表現に何か間違いや問題があるとは思いません。ただ、「罪に定める」という第三版の表現に親しんできたので、「罪ありとする」という訳に引っかかってしまいました。これからもっと2017の訳文に親しんでいけば、「罪あり」という表現にも違和感を覚えなくなるのか、今後に期待していきたいと思います。
デザインや見た目について
現代は、一般的にもデザインについての意識が高まっている時代だと思います。巷にあふれている広告や案内は、数十年前と比べても見やすく美しいものが増えています。そのような世の中一般の影響が遅ればせながら教会にも入ってきているように思います。教会やキリスト教団体の広告やホームページも洗練されたデザインのものが多くなっています。このようなよい影響が新改訳聖書にも及んだのでしょうか。聖書本文や目次や見出しの書体(フォント)が新しくなりました。第三版と比べてみると違いを実感できます。多くの人が2017のほうが美しく読みやすいと感じるのではないでしょうか。また柱の書名がページの端に印刷されるようになっていたり、ページに新約と旧約の区別がつけられるようになっていたりと、細かなところに読みやすさへの工夫が見られます。
表紙や装丁のデザインというのはとても難しいものだと思います。特に聖書は幅広い世代の人に読まれるものですから、特定の人に不快感や違和感を与えるものであってはいけません。2017も聖書としての風格を持ちつつ多くの人に親しまれる装丁であると思います。私としては、装丁の見た目以上に、丈夫さが気になります。長年親しんでいきたい聖書ですので丈夫でしっかりした装丁であってほしいです。
皆さんは、新しい聖書、『聖書 新改訳2017』にどのような印象をお持ちでしょうか。印象を分かち合うことによって、ともに新しい聖書に親しんでいけたらと思います。