特集 スピリチュアル・ディレクションって? 心の奥深くに根づく「物語」への気づき

カンバーランド長老キリスト教会 高座教会 主任牧師 松本雅弘

『エクササイズ』第一巻に、著者の友人ジョン・オートバークが新しい赴任先に向かう直前、メンター(助言者)のダラス・ウィラードに霊的指導を求める話が出てきます。そのときに、「あなたの生活から急ぐことを情け容赦なく抹殺しなさい」という助言しかもらえなかった、いやそれだけで十分だと、そのことを強調したエピソードが紹介されていました。

数年前、牧会伝道の働きに携わりながら、なぜこんなにも忙しく走り回っているのだろうかと、自らを省みて思わされることが幾度となくありました。実際、何人かの牧師が突然、牧会を退かなければならない姿を目の当たりにしました。このままだと何かの拍子につまずきかねないとの予感、漠然とした不安を感じていたものです。
『リーダーシップのダークサイド』(G・L・マッキントッシュ、S・D・ライマ共著)の中に「どのリーダーもある程度の人格的機能不全を患っている」と書かれていますが、読み飛ばすことのできない言葉として、私の心に響いたことがありました。こんなにも必死になって牧会伝道の働きを進めているのは、自分の内なる虚しさを埋めるための「隠れた動機」に操られているだけなのではないのだろうか、と自らの内面を振り返る経験をしたのです。そのような時期、『エクササイズ』の書物と出会いました。
私たちはだれもが心の奥深くに神への深い憧れとともに、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣ける人になりたい、神を愛し、隣人を愛する生活を送りたいという願いをもちながら生活していることでしょう。しかし現実は、といえば、いちばん身近にいる家族すらも大切にすることができずにいる自らを発見するのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20・35)という主イエスの言葉を知りつつも、それとは逆の「物語」が牧会伝道の現場で、また自らの人生の大事な局面で、私の心の中で動き出す経験をしてきました。牧師ですから「正解」は分かっているつもりです。しかし素の私は「与えるよりも受けるほうが幸いである」という「物語」に縛られ、みことばとは正反対の状況を欲し求めているのです。他人と比較しながら、その結果、日々の小さな勝利感を糧に生きている自分を発見したのです。

『エクササイズ』では、私たちに変革が起こるプロセスの中で、まず大切なステップとして「自分の物語の意識化」があります。「自分はどういう物語で生きているのか」「何が価値あることなのか」「人生における成功とは何を意味するのか」。著者は、こうした大切な問いに対する答えとして、育った家庭や自分を取り巻いてきた環境の影響を受けながら獲得し、そうして一度身についた物語はその人の中に根づいてしまう、と語っています。私自身は、『エクササイズ』をテキストにした学びと交わりのなかで、私の内面に深く根づいている物語が「成果主義」、古い言葉で言えば「律法主義」であることに、あらためて気づかされました。
著者のジェームズ・ブライアン・スミスはフレンズ大学で教鞭をとるかたわら、長年にわたりフラー神学校でダラス・ウィラードの助手を務め、ウィラードから霊的形成のカリキュラムを書くようにと勧められ、執筆されたのが『エクササイズ―生活の中で神を知る』、第二巻は『エクササイズⅡ―神の国の生き方を身につける』、第三巻は『エクササイズⅢ―共に神の愛に生きる』(仮称)です。
本書と出合い、いつか牧会している高座教会でも本書を用いて学びたいと願うようになり、本書の内容を紹介しながら教会員とともに霊的形成と取り組んできました。参加者から、最初のエクササイズが「睡眠」であることに度肝を抜かれ、「眠ることイコール怠けることと思っていたが、睡眠がいかに大事で信仰生活とも深く関係するのかが分かり解放された」との感想も寄せられました。確かに人間が創造され最初に導かれたことは「睡眠」で、「夕があり、朝があった」という創造のリズムが被造物である私たちのうちにも刻まれていることに気づかされるのです。

学びによって、心の奥深くに根づく「物語」に気づき、それがいかに「イエスの物語」と異なっているかも知らされ、聖霊の助けにより次第に「物語の書き換え」へと導かれ、歩みが変えられていく。そうした恵みを小グループで分かち合いながら、キリストに似た者へと成長する信仰の旅路を励まし合って歩む喜びの輪がさらに広がることを祈ってやみません。

ロングセラー!


『エクササイズ
生活の中で神を知る』
ジェームズ・ブライアン・スミス 著
松本雅弘 訳
四六判 384頁
2,200円+税

『エクササイズII
神の国の生き方を身につける』
ジェームズ・ブライアン・スミス 著
松本徳子 訳
四六判 390頁
2,300円+税

近刊『エクササイズⅢ
共に神の愛に生きる』