あたたかい生命と温かいいのち 最終回 神様の愛にあふれた日々を

あたたかい生命と温かいいのち 最終回 神様の愛にあふれた日々を

福井 生
1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。

「あたたかい生命と 温かいいのち」このタイトルを読んでくださった方から質問をいただいたことがあります。
「あたたかい生命と、温かいいのちはどう違うのですか」
初めてこのタイトルを読まれた方はそのようなとらえ方をされるのかと、説明不足を反省させられました。タイトルでは漢字とひらがなで二つの「生命」が使い分けられています。これは文字の違いに意味を見いだそうとするものではなく、それぞれの温かい生命という意味なのです。
生命は温かいです。しかし、一つだけだったら、いつかはその温かさは冷めてしまいます。だから、みんなで寄り添って、一人一人の温かい生命で、みんなの生命を温め合おうという祈りが込められているのです。

現在、戦争の足音がそれほど遠くないところで聞こえているような恐怖を感じます。戦争にはならないと楽観的なことを言う方もおられます。しかし楽観性を盾に戦争の悲惨さから目を背け続けたとき、戦争を望む人たちは好都合と言わんばかりに盾の向こう側で着々と準備を進めていきます。気がつけば悲惨さの中に自らを見いだすことになるのです。
戦争は生命を奪います。障がいを持つ仲間たちの生命も奪います。仲間たちは武器を製造することも、買い求めることもしません。そして武器を製造し、買い求める人々から、その武器を持つよう命令されることもありません。彼らは生命を奪うことにすら目に見える効率性を重視し、仲間たちを邪魔な存在とするからです。
私たちは遅かれ早かれ、武器を持つのか、持たないのかと選択を迫られるかもしれません。戦争になんてなるはずがないと思っている人たちは、実は、その選択のときから目を背けたいだけなのかもしれません。仲間たちはその選択の苦しみから免除されるのです。それでは仲間たちは幸せなのでしょうか。決してそうではなく、この仲間たちが最初に生命を奪われるのです。この中で、仲間たちは完全に無抵抗です。
それどころか仲間たちはミサイルのボタンを押す人までも、その者に笑顔を向けられれば、心を開きます。戦車という鉄の塊が生命を奪うという本来の目的を隠し、草原の中に静かに止まっていても優しく声をかけます。
「どうしたの? お腹すいて動けないの?」
ミサイルのボタンを押す者は、そして戦車という鉄の塊は冷徹に仲間たちのこの優しさを笑い、ボタンを押し、砲弾を放つのです。
生命を奪う者の側に属さない仲間たちは、神様が与えてくださった生命を感謝して生きる者たちです。
活き活きとした息使いで思いっきり呼吸をし、限りなく温かい笑顔で心から笑うことをする者たちです。
この仲間たちの上にミサイルを降り注ぐ者たちに、イエス様は悲しみの涙を降り注ぐのでしょう。

これまで連載をさせていただきました「あたたかい生命と 温かいいのち」もこの号で終わりをむかえることになりました。
私は止揚学園で生まれ、仲間たちとともに成長してきました。そのような日々の中で変わらないものがあるとするならば、それは仲間たちが私のことを信じてくれているということです。仲間たちは子どもの頃の笑顔が垣間見えるその優しい面持ちで今日も私のことを見つめてくれます。そしてこの眼差しはすべての人々に向けられています。仲間たちはすべての人を信じているからです。そして最もイエス様を信じています。だから仲間たちにとって、イエス様の涙は決して冷たく無慈悲に降り注がれるのでなく、冬が終わり、春先に降る優しい雨のように温かいものなのです。戦争とは対極の、生命を生み出す温かい雨なのです。

すべての人がそのことに気づき、もう戦争をやめようと、そう思ってくれることを仲間たちは信じています。そして言葉を話すことは難しいけれど、活き活きとした息で語ってくれます。その息吹は仲間たちの平和を願う祈りです。
今、目を覚まし、この心の祈りを聞くときです。そして諦めずに祈り続けるのです。私はこれからも仲間たちの温かい生命に温められながら、そして仲間たちの生命を温めつつ、歩んでまいります。この歩みこそが平和に繋がる「祈り」そのものであることを心に深く刻みつつ歩んでまいります。
今日まで「あたたかい生命と 温かいいのち」を読んでくださり本当にありがとうございました。
止揚学園にて知能に重い障がいをもつ仲間たちと、皆様の神様の愛にあふれた日々をお祈りしております。