『歎異抄』と福音第九回 「よきひと」との出逢い

大和昌平

『歎異抄』第二章は、はるばる東国から京都の親鸞を訪ねてきた弟子たちと親鸞との命がけの問答の記録である。助けを求めてきた弟子に対し、そっけなくも見える態度の親鸞から、法然を「よきひと」と敬仰する絶対随順の心が表される。宗教の世界における師と弟子の命をたぎらせるドラマが、『歎異抄』の魅力の一つなのだろう。弟子たちへの親鸞の言葉に続けて聞いてみたい。
◇「もししからば、南都北嶺にも、ゆヽしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、たヾ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」(第二章)|もしそうであるなら、奈良の興福寺や比叡山の延暦寺に恐れ多い学僧たちが多くおられるので、その方々をお訪ねになって、往生の勘所をよくよくお聞きになるべきです。親鸞としては、ただ念仏をして阿弥陀仏に助けられよとの良きお方の教えをいただき、信じている以外に特別なことは何もないのです。
「南都北嶺」は仏教の最高権威を意味し、「南都」は奈良の都に展開した南都六宗を代表する興福寺であり、「北嶺」は平安仏教の雄である比叡山延暦寺を指す。南都六宗には、一切は空であると説く三論宗や、認識のみが存在すると論じる法相宗があった。最澄が開いた比叡山延暦寺は学論・修行共に厳しく、法然も親鸞もこの山で修行した。やがて山を下り、独自の道を歩みだすことになる。
念仏して阿弥陀仏の助けをいただくのだとの法然の教えを聞いて、信じているだけなのだと親鸞は告白している。きわめてシンプルに「よきひと」法然にすべてを懸けている。弟子としての一途な態度は、法然に騙されたとしてもかまわないとの激しい文句ともなっていくのだが、いったい親鸞は法然とどんな出逢いをしたのだろうか。

二十九歳の親鸞は比叡山を下り、京都の六角堂に百日間の参籠を行っている。その九十五日目の暁、観音菩薩が夢の中で姿を現し、次のような夢告を行ったという。
「行者、宿報にて女犯すれば、我玉女の身と成りて犯せられん。一生の間、能く荘厳し、臨終には引導して極楽に生ぜしめん。」|修行僧のあなたが前世に行ったことの結果として女犯の罪を犯すことになれば、私が美しい女となって犯されよう。一生の間あなたの身を守り、臨終には極楽に生まれさせよう。
観音菩薩は浄土経典と並ぶ大乗経典の法華経に登場し、現世にも臨終にも優しく助けの手をのべる神話的存在だ。観音像はよく女性形に造像される。この夢にも無限抱擁的な女性の優しさへの憧れが投影されているのだろう。
仏教の出家者に対する戒律には不淫戒(性交をしない)がある。しかし、日本の日本仏教の中世において官僧の間で女犯(女がいて、生した子を弟子にしていた事例もある)や、童子(寺内で修行・雑役にあたる少年)との間の男色は、一般的に行われていた(松尾剛次『破戒と男色の仏教史』参照)。今で言えば児童への性的虐待のような破戒の現実を、少年期から青年期を過ごした寺内で親鸞は見ている。
親鸞における性の悩みは大きなテーマなのだが、表立って語られてこなかった男色の環境をも考えると、より深刻な問題となる。観音菩薩の夢告の真偽は議論されているけれども、性の問題に悩みぬいた生真面目な青年僧に決定的な転機が訪れたことをよく物語っている。親鸞はこの直後、法然のもとに百日間参じて、念仏のみに生きる法然の弟子になることを決意する。親鸞における回心である。その際、法然は悩める親鸞にこう語りかけただろうと言われる。
「ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、聖にて申すべし。」|独り身で念仏ができないのなら妻を儲けて念仏しなさい。妻を儲けると念仏ができないのなら、独り身の修行僧のまま念仏しなさい。(『法然上人全集』「禅勝房伝説の御詞」)
法然は不淫戒を保つ持戒の清僧だったが、苦悩の青年僧にはきわめて寛容な指導を行った。親鸞はこの言葉で本当に解放されたのだろう。念仏一筋に生きる法然門下の一人となり、公然と妻帯に踏み切り、堂々と破戒僧として生きてゆく。親鸞の抜き身の剣のような鋭い生きざまは危険視されたのではないだろうか。これが親鸞の「よきひと」との決定的な出逢いであった。
法然も親鸞も比叡山を下り官僧としての身分を捨てた。邨世僧と呼ばれ、白衣の官僧に対して黒衣を身にまとった。同じ念仏門とはいえ、独身を保つ清僧として生きた法然と、公然と破戒僧として歩む弟子の親鸞とはきわめて対照的だ。さらにキリスト教との対比をしていく際に、この師と弟子の生き方の相違は大きな意味をもつことになる。