Opus Dei オペラな日々 第2回 こころの理解

稲垣俊也
オペラ歌手(二期会会員)、バプテスト連盟音楽伝道者

稲垣俊也

ことばを理解するとは?

 感謝なことに私は、毎年のようにアメリカやブラジルなどの日系人の皆様よりご招待を受け、コンサートツアーをさせていただいています。

 コンサートにお出かけくださる方には、いわゆる「日本語理解者」である日系人の方々がおられますが、二世三世と時を経て、ご当地にしっかりと根を張っていくうちに、日本語を理解する方がめっきり少なくなってきているようです。

 異国の地で行うコンサートであればこそ、本来的な意味での「ことばの授受」「ことばの理解」ということを毎回の訪問で考えさせられています。通常、「ことばの理解」というと「文法的説明・釈義によって文意をのみこむこと」とされますが、今号では、“こころ”で“ことば”を理解し合い、共有することのすばらしさについて述べたいと思います。

心の三要素

 “こころ”とは何か? という問題には、古くから関心が持たれてきました。最近では、「知」=知性・理性、「情」=感情・感覚、「意」=行動への意思、これら三つの要素によって成り立っているとされています。

 「ことば」は、文意を文法的、知的に理解させることにとどまらず、「知、情、意」の全人格に染み渡り、人の感情を整え、纏め上げ、潜在的な感動にまで高めてくれます。そして、その人が生きるための“動機”となります。つまり、「ことば」は、人の心身に入り込み、働き始める「人格者」なのです。ことばをこころで理解するとは、人格者としてのことばの働きを、自分の全人格で感じ、味わうことなのです。

グレゴリオ聖歌の効用

 「グレゴリオ聖歌」は、オペラのみならず、すべての音楽のルーツとされています。その成立期には、聖歌の果たす目的について以下の三点が掲げられました。
[1]「ことば」を教え、解き明かす(Docere)──“知”に訴える働き、
[2]「ことば」に感動する(Movere)──“情”に訴える働き、
[3]「ことば」を喜ぶ。喜びを伝える(Deletra)──“意”に訴える働き。

 グレゴリオ聖歌は、「みことば」を何度も繰り返し歌っています。なおかつ、繰り返す際には、旋律が微妙に変化(バリエーション)しています。繰り返すということは、その「みことば」が、歌う人、聴く人を“拘束・支配”すること、あるいは“教育”することを表しています。さらに旋律がバリエーションするということで、拘束(繰り返し)からの開放を表します。

 グレゴリオ聖歌を歌ったり聴いたりする目的は、私たちがみことばに教えられ、そこに留まることだけではありません。みことばが“わたくし”という楽器をとおして共振することによって、“わたくし”がより豊かな調和へと導かれることなのです。グレゴリオ聖歌は“わたくし”という楽器が、より良く発展していくための“道しるべ”といえましょう。

生けることば

 宗教改革者マルチン・ルターは、「生けることば」を「話されたことば」、「死せることば」を「記されたことば」としていますが、これは決して聖書に記されている「みことば」をないがしろにしたり、神性を否定するものではありません。

 むしろ、「ことば」は、話され、歌われる(話すことと歌うことは同義と考えられている)時に、最もその効力を発揮することを訴えるため、あえて極端な言い回しをしたのでありましょう。

 神のことばは、書かれる以前に語られたことばでした。預言者や使徒たちは、書き記す前に語ったのでした。福音は何よりもまず、良きおとずれについての叫びであり、宣教でもあります。使徒たちの第一の仕事は、書くことではなく語ることでした。

こころを読み取って

 作曲家も楽譜を書いてから音楽を思いつくのではありません。頭の中に音楽が鳴り響き、抑えがたい衝動によって、楽譜に書き記されていくのではないでしょうか。

 「楽譜は結果である」と私たち演奏家は言います。記された音楽の前に、どのような作曲家自身の心の高まり、そよぎがあったかを楽譜から読み取り、表していく作業が、すなわち“演奏”であるといえましょう。

 演奏家が“演奏”するように、“記された書物”から、主イエスがどのような思いでそれらのことばを語られたのか、その動機を紐解き、高らかに語り歌うことが、私たちキリスト者の第一の使命ではないでしょうか。