21世紀の伝道を考える 8 インターネットの功罪とこれからの課題

山下 正雄
キリスト改革派教会 メディア・ミニストリー 日本語部 主事

 つい二年ほど前、「インターネット伝道」という言葉に対して両極端な反応がありました。一つはうさん臭く怪しげで、危険なものというイメージを抱く人たちの反応です。もう一つは、「インターネット伝道」で福音宣教の成果が飛躍的に伸びるとするバラ色のイメージを抱く人々です。この両極端な反応には、それなりの理由があります。

 ほんの数年前、自殺の仕方を指南したホームページによって、実際に自殺をした人が出てしまったという記事が新聞をにぎわせました。その後も、政府関係のホームページがハッカーによって改ざんされてしまったとか、最近では、顧客の個人情報がサーバから盗まれてしまうというニュースもありました。こうした記事を目にするたびに、インターネットは危険なものという印象を抱くことになります。

 確かにキリスト教会のホームページがハッカーの攻撃の対象にならないとは限りません。そういう意味では、セキュリティに関して、決して甘く考えることはできません。しかし、ただマイナスのイメージを抱くだけで、インターネットから手を引いてしまうのは残念な気がします。当たり前のことですが、インターネットそのものは良くも悪くもありません。そうではなく、それをどう使うのか、それを用いる人間が問題なのです。先述の自殺のことは痛ましい事件でしたが、逆にキリスト教のホームページを通して生きる希望を見出し、永遠の命であるイエス・キリストと出会う可能性もあるのです。

 さて、インターネット伝道にバラ色の夢を抱く人たちに対しても、その理由は十分に理解できます。次のグラフは私たちの過去十年間のフォローアップ状況です。インターネット関連の数字が他と比べて急速に伸びていることがわかります。この数字は今後も伸びていくことが予測されますから、伝道の道具としてインターネットがどれほど優れたものであるのか、想像していただけると思います。

 しかし、これもまた当然のことなのですが、伝道の最後の部分は人間と人間とが向き合います。コンピュータが人間の相手を適当にやってくれるわけではありません。数字が伸びれば伸びるほど、人手も必要になってきます。インターネット伝道を始めた当初、私一人で一日にメールを数百通も書く日がありました。これでは伝道の成果が落ち込むのも時間の問題です。

 インターネットの技術は年々進歩していますから、教会にとって信頼の置ける技術者の養成も必要です。しかし、それ以上にレスポンスに対して適切な回答を与えることができる伝道者の養成がさらに急務です。ここで言う伝道者とは、必ずしも専門的な神学教育を受けた教職者と言う意味ではありません。信徒のレベルで適切な伝道が行える人材を育て、信徒に与えられている賜物を用いることが大切ではないかと思います。

 もちろん、情報を一方的に送るだけのホームページにとどまるということも選択肢の一つかもしれません。しかし、多くの人にとって、魅力のあるホームページとは、ある程度双方向にやり取りができるホームページです。閲覧者も関わりが持てるというところに、伝道のきっかけも与えられるのではないでしょうか。

 最後にいくつか考えなければならない点を挙げて終わりたいと思います。

 インターネットへの接続方法は、初期の電話回線を使ったダイアルアップ方式から、現在ではADSLやケーブルを使った常時接続の環境が一般家庭でも増えつつあります。しかし、その恩恵に与れるのはまだ一部地域に限られています。

 また情報の送り手として考慮しなければならないのは、回線速度が遅い環境にある人たちでもストレスなく見ることができるような内容であるということです。手の込んだものやデザイン的に見栄えのいいものが必ずしも見やすいホームページとは限りません。

 また、インターネットへのアクセスの手段そのものを持っていない人たちもいることを忘れてはいけません。しかし、これは考えようによっては、教会のパソコンを開放したり、教会でパソコン教室を開いたりして、伝道の輪を広げるチャンスと考えることもできます。インターネットを閲覧する目的ならば、中古のパソコンでも十分です。

 インターネットは福音宣教にとって万能の道具ではありませんが、しかし、使い方によっては大きな助けになることは間違いありません。