霊的読書のススメ 霊的に本を読むとは(前半)

野田 秀

1932年、ソウルに生まれる。東北大学法学部。インマヌエル聖宣神学院卒業。フリー・メソジスト桜ヶ丘教会協力牧師。著書に『牧師室で考えたこと』、『礼拝のこころえ』『教会生活のこころえ』などがある。
最新刊『牧師室で考えたこと』
時代に流されることなく、聖書にかたく立って生きるためにはどうしたらよいのか? 45年にわたる自身の牧会生活を振り返りつつ、みことばから提言した一冊。
B6判 1,575円
いのちのことば社

 読書は、神から与えられる恵みのひとつである。人は本を読むことによって知識を蓄え、心を養い、生きる力と指針を与えられる。読書というものがなかったらと考えると恐ろしい。

 本の読み方を表すことばには、精読、熟読、味読、多読、耽読、濫読、速読、積ん読などさまざまあるが、たとえ積ん読であったとしても、本がそこにあるということが与える幸いは小さいものではない。

 ここに述べることは、クリスチャンの読書についてである。そして、それは聖書や信仰書でなく、一般の書物をどう読むかということについてである。つまり、霊的な本を読む話ではなく、「霊的に本を読む」ことについてである。

 クリスチャンには、聖書だけ読めば十分であるという人や、聖書とともに信仰書は読むが一般の書物は手に取らない人がいないわけではない。しかし、高校の教師であるクリスチャンが日本の古典や欧米の著名な作品を読まないとか、クリスチャンの医師や弁護士が医学書や法律書を開かないということはあり得ないし、あってはならない。

 仕事のうえだけでなく、教養や趣味としての読書はクリスチャンにとってもけっして無意味なものではない。もちろん、不健全な書物を近づける必要はないが、その判断も含めて、一般の書物をどう読むかについて考えてみよう。

私の場合

 人は、立場や興味や求めによって読む本が異なるが、まず、私自身の現在の読書について述べてみたいと思う。おおよそそれは三つの分野になる。
  1. 歴史や社会を学べるもの
     私の世代は、悲しくも悔しいほど歴史を正しく教えられなかった。少年時代に戦争の時代を過ごしたからである。そこで学んだ歴史は、極めてかたよったものであり、しかも、単なる暗記ものに過ぎない蕫歴史﨟という教科のひとつでしかなかった。
     戦後、それまでに教えられたことが正しくなかったのだということは知ったものの、相変わらず歴史や社会の現実を知らないままにきてしまった気がする。ようやく現在になって、その大いなる欠けを補い始めている始末である。
     必ずしも推薦するということではないが、最近手にしたものを例として挙げてみよう。『権威主義の正体』 (岡本浩一/PHP新書)、『昭和史』(半藤一利/平凡社)、『あの戦争は何だったのか』(保坂正康/新潮新書)、『靖国問題』(高橋哲哉/ちくま新書)、『国家の品格』(藤原正彦/新潮新書)など。
  2. 人間を学べるもの
     人間を知るために、私は小説も読む。それらは、作者の人間洞察の所産であるから、登場人物から人間について知り、同時に作者のものの見方や考え方を学ぶことができる。本によっては終わりに解説がついているものがあるが、解説者の批評の内容や文章に考えさせられることも少なくない。

     戦後の社会問題に注目した松本清張、歴史をひもといて見せた司馬遼太郎、日本人の原点を描いた藤沢周平をはじめ、すぐれた作家の書いたものには人間の隠された美しさやみにくさが明らかにされていて興味深い。   多感な時期であった中学生から高校生にかけて夢中で読んだものに、吉川英治の『宮本武蔵』、アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯(厳窟王)』、パール・バックの『大地』などがあった。これらは、福音とは直接関係ないものであるが、いわば私の心の温床のようなものである(牧師になってから、パール・バックが中国への宣教師の娘であったと知った)。

  3. ことばを学べるもの
     活字にふれることによって、私たちはことばを知ることができる。

     厳密な意味での読書とはいえないかもしれないが、私はよく国語辞書を読む。ことばを知るためである。小学生の時、国語の読本に出てきた「しじま」ということばの意味を辞典で知ったのが、辞書を引く楽しさを経験した最初であった(時代を反映して、伊勢神宮についての文章であったが)。

     ことばを扱う仕事に従事する者として大切なことだと思うので、現在も続けている。そのたびに、知らないことばは無限にあるものだと痛感する。