踊るクリスチャン 第3回 信仰って何?

踊るクリスチャン
清水好子
単立・入間聖書バプテスト教会牧師夫人

 キリスト教主義の保育園に勤めて二年目、私は他のスタッフと二人で三歳児三十一人を見ていた。三歳児クラス始まって以来の大人数と、まったくバラバラな子どもたち。新人の私は毎日くたくただった。それに加えて、日曜祝祭日、有給休暇は教会のために使っていた。心身共に休む時がなかった。職場では職場第一と思い、教会では教会第一と思い、本気で仕事と教会生活の両立を目指していた。すごく疲れた。

 頑張れば頑張るほど信仰がわからなくなった。やればやるだけ自分と信仰が離れていく。頑張っている見た目の自分と、本当は疲れきっている自分がいた。本音で物を語れない自分、自分が嫌いで自分すら受け入れていないのに隣人を愛そうとする自分。聖書の言葉も頭に入らなくなった。

 信仰を持たなければよかった。クリスチャンはこうあるべき、こうあらねばならないという思いに縛られ、信仰なんて生きるための力にならないと考えていた。

 私は奉仕を頑張らなければ安心できなかったり、こうあらねばならないという信仰から逃れたかった。そこで仕事をやめて、「信仰って何だろう」「私は一生をかけて何をしたら良いのだろう」と自問し、静かに聖書を読み、祈る生活を一年半続けた。その中で「真理は自由を得させる」という意味に気づき、やっと自分の状態を無視しないありのままの信仰にたどり着いた。それと同時に「まず神の国とその義とを求めなさい」というみことばにより献身に導かれた。

 私は自分が嫌いで自分に自信がなかった。そして現実の自分と理想の自分といつも戦っていた。本当は、現実の自分と理想の自分という区別はない。悩んで、迷っている自分が本当の自分。その自分をありのままに受け入れることが、自分を愛すること。ありのままの自分を受け入れることができるから、ありのままの他者を受け入れることができるのだ。そして、それが隣人を愛するということなのだと思う。

 今、振り返ると「何もあんなに頑張らなくてもよかったのに」と思うことがある。でも何をするにも、今の自分にはこれ以上できないと思えるところまで本気でやるから、真実に出会えるのだとも思う。