誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第11回  共にささえる

井上貴詞
東京基督教大学助教

今回は、災害時における認知症の方へのケアと、突然家族を失い、悲嘆の中にある方へのケアについて「共にささえる」というキーワードで考えてみたいと思います。

認知症が出始めた方と共に

災害などで環境が変わったりすると、不安の中で、急激に認知症の状態・症状が出始める場合があります。慣れぬ環境そのものが高齢者には強いストレスですが、認知症が進むと周囲のざわつきすらストレスになります。
大勢の人がいる中で過ごさざるを得ないときには、人の動きが少ないところや比較的静かなところを選ぶことが賢明です。視界に入る風景もできるかぎり不安をかきたてるものにならないように配慮しましょう。落ち着いた、ゆったりとした対応や、本人なりにわかるように情報を伝えることもストレスを軽減します。服薬や家事などにミスが目立つようになり、次に食事や排泄、着替えすらもちぐはぐになる場合があります。普段何気なくしていたことができなくなることは、本人にとってショックであり、周囲もいらだちを感じます。しかし、実はこうした行為は、複雑な動作と判断の組み合わせなのです。一つずつ、声かけをし、見守り、共にいることの安心を伝えると本来の力を取り戻します。やりやすいようにちょっとした配慮をしておくことや、長所を見つけてほめてあげることは、こころの安定を保つ秘訣です。認知症の方には、なじみの人が安心となります。そのため、介護者に代わって他人ができることは限られますが、一時的に介護者が休めるようにしたり、食事づくりや必要な物資の調達、外部の機関との橋渡しといった間接的支援で介護家族を共にささえていくことは欠かせません。

悲嘆の中にある方と共に

愛する人との死別では、大きな悲嘆(グリーフ)を体験します。災害などで突然に家族を喪うことは、「暴力的な死別」ともいえ、外傷性悲嘆(トラウマティックグリーフ)をもたらし、長い年月にわたるケアを要します。
死別体験は、年齢が低いほど強いストレスですが、高齢者はその例外です。亡くなった人の声が聞こえるなどの状態は、悲嘆の表出でもあり、「死んだ人と話をするのは偶像礼拝」などと安易に咎めることは避けるべきです。
「亡くなった人のことで頭がいっぱいになる」「亡くなった人と同じ部位が痛む」「思い出そのものが不快」「亡くなった人と関わる場所や、物に引き込まれる」「生きることに罪責感を感じる」「他の人を信じることが難しくなる」などは、外傷性悲嘆の症状です。悲嘆のプロセスとしてこれらを受容すると共に、専門家の支援も必要な段階です。悪化すると、精神疾患の発症や自殺すら誘発します。

チームワークでささえる

Nさん(七十八歳、女性)は、突然、くも膜下出血で夫を亡くしました。そこに、もともといさかいのあった長男と夫の財産相続をめぐってもめごとが起こり、裁判で争うまでになりました。Nさんは、「暴力的な死別」体験の上に、骨肉の争いという、耐え難い大きなストレスから劇薬で自殺を図りました。すぐに発見され、いのちは助かりましたが、多臓器不全という重い後遺症が残りました。寝たきりになったNさんは、茫然とした表情のまま「早く死にたい」とくり返すだけで、私も途方に暮れるばかりでしたが、祈りのうちに何度か訪問し、医師の往診だけは了解を得ました。
依頼した医師は、温かく包みこむように優しく丁寧に病状を説明して、Nさんを安心させてくださいました。その後、Nさんの希望で提供した自宅での入浴では、訪問入浴サービスの若いスタッフが笑顔で接し、Nさんのこころを解きほぐしてくれました。次第にNさんの、「死にたい」の言葉は消失していきました。
ある日、Nさんの家で理学療法士や薬剤師も加わったチームメンバーで、Nさんの現状と今後について話し合いをしました。Nさんは、多くの人が自分を支えてくれていることに改めて驚かれました。車いすにも座ることのできたNさんの口からは冗談も飛び出して、一気にその場がなごみました。体力がついたところで私が試しにと勧めたデイサービスで旧友と再会し、Nさんの表情は見違えるようにいきいきとしていきました。Nさんを回復させたのは、専門家から友人に至るまでのチームワークのささえでした。
中風の人を四人の友人が床の四隅をつりあげてイエス様のもとへ運んだようなチームワークが、日本社会に浸透し、物質的な復興だけでない、霊的覚醒と再建という神のみわざがこの国の中に現されることを祈っています。
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」(マルコ2章5節)

※事例はプライバシーの保護のため、事実や趣旨を歪曲しない程度に一部フィクション・再構成となっています。