自分の生と死を看取る生き方 第3回 病気でいると、得がある?

近藤裕
サイコセラピスト、教育学博士(臨床心理)、元・百合丘キリスト教会牧師、現ライフマネジメント研究所長。西南学院大学卒。米国に留学(1957~59,1968~71年)。在米生活17年。

 著書に「自分の死に備える」(春秋社)、「スピリチュアル・ケアの生き方」(地湧社)などがあり、著書は90冊を超える。

 「三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスは……その人に『なおりたいのか』と言われた。……『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。……『もう罪を犯してはいけない』」(ヨハネによる福音書5・4~14口語訳)


「なおりたいのか」とイエスは改めて問いました。
世の中には「何か得をするから、病気になる」という人もいます。普通は考えられませんが、実は、得をするから病気になるという人や、治らない方が得だから、いつまでも治りたくないという人もいるのです。例えば、「病気」になれば〈体が休まる〉、〈周りの者が優しくしてくれる〉とか。〈他人に甘えたり、依存したり〉とか、〈自分がしなくても済む〉、〈仕事や自分の役割を放棄できる〉とか。私は、子どもの頃、よく風邪を引いて学校を休みました。今になって振り返ってみると、学校を休みたいために、また、家で母に甘えたいから風邪を引いたのだと思います。私の下に妹や弟が次々と生まれ、母の関心や時間が妹や弟に向けられ、私が無視されることが不満だったのです。母親の関心を得るためにお腹が痛い、頭が痛いと言って仮病を使い床に伏していたこともありました。また、実際に、よく風邪を引くなど、体が虚弱な子でした。仲が悪い両親、家出を繰り返す母。そんな家庭環境にあって感じていたもろもろの心の不満が私の体の免疫力を弱め、病気を招いていたのかもしれません。友人の紹介でカウンセリングを求めてこられたKさん(六十歳)。ここ数年、疲労が激しく、体力もなく、夜も眠れない。とても家事が出来る状態ではないので、医者に行ったら、薬をたくさん処方され、飲んでいるけど治らない。精神科に紹介され、「うつ」と診断される。そこに二年通っているけど、よくならない。睡眠薬のおかげで、眠れるようになったが、昼も眠い。何もできないので、家事手伝いをお願いして家事をどうにかまかなっている、という。
「これじゃ、私は廃人と同じですね!」と、嘆きます。
Kさんが病気になったのは、夫の定年退職が間近に迫ってきた頃からでした。夫に対する不満や怒りの感情をこらえ続けてきたKさんは、週末に夫が家に居る時に「病気になる」ことで夫の世話を堂々と放棄できたのです。また、夫に不便をもたらすことで夫に復讐をしていたのです。と同時に、自分の両親や姑に対する怒りを抱き続けてきたことの罪意識を感じていたので、病気になることで、自分を責め、償いをしていたのです。意識の面では「治りたい」と願っていても、潜在意識の面では、「治りたくない」という、二つの心の葛藤により、いつまでも病気に苦しめられているというジレンマの中で悩み続けていました。「病気になる事が得になる」「病気が治らない方が得」「治りたくても、治ることができない」といった心のメカニズムを描いている例です。病気になる原因も要因も複雑です。病気の要因には、大きく分けて、(1)遺伝的要因、(2)環境的要因、(3)個人的要因の三つが考えられます。このうち、遺伝的要因や環境的要因は、自分でコントロールできないという面が多いのですが、その一方で、自分の対応の仕方を選択する自由はあるので、対応の仕方によっては、健康に生きることも、病気になるということもありうるのです。また、病むことが避けられない状況においても、「健やかに病む」ことで、病気と同居しながら克服することも可能なのです。これに対して、個人的要因は、基本的には、自分でコントロールできるものです。自分の「生き方」が病気の要因になっていることに気づき、それを変えることによって病気を防ぐことも、再発を防ぎ、病気を治し、健康を回復することも可能なのです。

イエスは、三十八年もの間、病の床に居た人の根本の問題を見抜き、「なおりたいのか」と問うことによって、病の原因を取り除き、この人の病を癒されました。そして、心身共に健やかな生き方へと導かれたのです。スピリチュアルな光のもとに照らされる時に、心身共にたくましく生きる道が示されるのです。