自分の生と死を看取る生き方 第1回 初めに光りありき

近藤裕
サイコセラピスト、教育学博士(臨床心理)、元・百合丘キリスト教会牧師、現ライフマネジメント研究所長。西南学院大学卒。米国に留学(1957~59,1968~71年)。在米生活17年。

 著書に「自分の死に備える」(春秋社)、「スピリチュアル・ケアの生き方」(地湧社)などがあり、著書は90冊を超える。

 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書 一・五/口語訳)何を見るにも、「見る目」と「光」が必要です。目だけでは何も見ることができません。見る対象に光が当てられなければ、目は見ることができないのです。

 光がない空間に身を置いた体験によって、このことを改めて気づかされました。何年か前にアメリカのケンタッキー州のマンモスケーブ国立公園を訪ねたときの体験です。電気の明かりに照らされた洞窟内の細い道を、滑らないように足元を見ながら地下数十メートルのところに降り立った時です。ガイドの方が、「皆さん、これから一分間、真暗闇の世界を体験していただきます」と言って、洞窟内の全ての電気を消してしまいました。

 一瞬、真暗闇! 隣の人の姿も見えません。足元も見えません。何も見えないのです。何かを*みたい。誰かに触れたい。支えられたい。

 「わあ、怖い!」と、誰かが叫びました。

 たかが一分間でしたが、光が全く存在しない空間に佇むことの恐ろしさを体験したのです。

 何も見えない世界は恐怖心を生みます。光があるところを探し求めたくても、怖くて身動きできないのです。

 私は、この体験を通して、目を持っていても、光のない世界では、無能であることを改めて知りました。また、光の下にいても、目が開かれていなければ、暗闇の中にいるに等しく、自分も、周りも、行く先も見えないことを改めて気づかされました。

 目と光。この両者があって、人間の目はモノを見ることができる。これは、精神の世界においても、同じです。人生の歩みにおいても、光が当てられて、足元や行く先を見ることができれば安心して歩を進めることができるのです。

 また、光があっても、見る目を持っていなければ、これも不安を招きます。危険な生き方をし、ときには絶望的に生きることにもなりかねないのです。

 かつて、私は生きる目的と希望を失い、自殺を試みたことがあります。戦後の精神的混迷のさなかに、疎開先の故郷の海岸で入水自殺を試みたのです。そのときに、私の脳裏に焼き付いていた聖書の言葉が甦ってきました。

 「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント人への第一の手紙一〇・一三/口語訳)絶望の暗闇の先に「光」を見た私は、「生きる」ことを選択したのです。

 人生において、病むこと、老いること、そして、死ぬことも避けられません。いずれの出来事も不安を伴う出来事です。病むことも、老いることも、そして、死を迎えることも、見るべきものを見ることができない暗闇の世界にとどまるかぎり、その不安と恐怖から脱することはできないのです。

 病むこと、老いることに人間が不安を感じるのは、そこに命の有限性を感じ、死を予知するからでしょう。人間にとって最大の未知である「死」。その未知の「死」を知るには強力な「光」が必要です。その光に照らされた死の姿や、死後の世界を予見することができる者にとっては、死は、もはや不安や恐怖の対象にはならないのです。

 昔の賢人は「メメント・モリ」│死を覚え、死を見つめた生き方の大切さを諭しました。現代に生きる私たちは様々な光の下で生きています。科学の進歩、医学や医療の発展に伴い、未知の対象であった病や老いの実体も、そして、「臨死の医学」の発展に伴い、「死に往く過程」における人間の生理的、心理学的体験の実体も明らかになってきました。

 これらのもろもろの光とともに、神の次元から与えられる「スピリチュアルな光」に照らされるときに、私たちは、健やかに、たくましく生き、老い、安らかに死を迎えることができるのです。

 そんな、すべての闇を追放する「光」の存在を、先の聖句は指し示しているのではないでしょうか。