考古学と聖書の世界 ◆考古学は、聖書を証明するものではない

杉本智俊
慶應義塾大学教授/新生キリスト教連合 町田クリスチャンセンター牧師

考古学の目的は、当時の生活の姿を理解することです。残された遺跡や発掘されたものなどから、たくさんの事実を集め、かつてその地域でどういった社会が形成されていたのかを推測し、組み立てます。
私はクリスチャンですが、聖書に書かれている出来事を証明するために考古学を学んでいるわけではありません。ある特定の立場を前提に何かを証明しても、別の立場の人は納得しません。かえって、そのような学問自体が信頼を失います。学問的成果は、あくまで、すべての人が受け入れられるものでなければいけません。クリスチャンもユダヤ教徒も、無宗教の人も、キリスト教が大嫌いな人も、すべての人が理解できる必要があります。
特に考古学では、通俗的な書物が多いので、ついセンセーショナルな出来事や、ひねった見方が期待されがちです。しかし、学問は常に小さな証拠を地道に積み上げていくものです。
また学問は、新たな「証拠」が発見されると解釈も変わり、学説も変わることを認識しておく必要があります。今通説になっていることにも、まだ隠されていることがあるかもしれません。
聖書の権威や事実性を証明することは、考古学の役割ではありません。学問は、その範囲を超えたことを言うことはできないからです。
そもそも、聖書を考古学で証明するということは、聖書よりも考古学に権威があるとすることですからね。

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私は、考古学とはまったく別の視点からキリスト教を信じました。クリスチャンになったとき、聖書のすべてを理解していたわけではありませんし、原点はもっと個人的な経験にあります。ですから、聖書の記述が正しいから神の存在や救いを信じた、とは言えないでしょう。
今信じている根拠も、簡単に説明するのは難しいのですが、むしろ私は組織神学的に信じているように思います。人間はどこまでいっても、神にはなれませんから、自分の力で神を知ることなどできないはずです。人間が神について考えたり、アプローチしたり、悟りをひらいた場合も、それはあくまで人間が生み出した思想であって、それで神に達することはできません。神の存在を知ることができるとするなら、それは神の側から人間に、その存在を示してくれた場合のみです。新約聖書のヨハネの福音書は、神について「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」と述べています。神のほうから人間のところにやってきた。こう述べていることが、ほかの教えとは違うのです。キリスト教は、「人間が神を理解した」とは言いません。「神が人間に自分を現された」と主張します。人間が悟ったり、思いついたり、考えついたものではない。このことに、私はひかれます。また、イエス・キリストは「自分はメシアだ」と勝手に主張したのではなく、預言の成就として来たと言われている点も不思議です。仮に、イエスが旧約聖書のメシア預言にならって生きようとした人間だったとしても、人はそれほどまでに自分の思い通りに生きられません。預言に合わせてイエスの生涯が書かれた、と主張する人もいますが、大きく事実と異なっていたら、だれもその記述を信用しなかったでしょう。
さらに驚くことに、このイエス・キリストは死んだあとに復活したとされています。非常に荒唐無稽な話です。しかし、多くの人がそれを信じました。
もし復活が本当に起こったとすると、人間の世界を超えた存在、神がこの有限な世界に特別に介入をしたと考えざるを得なくなります。いや、神が人間にかかわるとしたら、何かそういう人間の限界を打ち破る出来事が必要となるでしょう。歴史的にも、何かそれ(復活)に類するような特別な出来事が起こらなかったならば、キリスト教の誕生自体が説明できないとされています。ほかの宗教や教典は、そのような主張すらしていません。もしこの復活が事実なのだとしたら―人間にできること、人間の理解を超えたことが起きたということです。つまり、神が人間になった、という主張について真剣に考えざるを得ないんじゃないか、と思うのです。

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また、『聖書』には、全体に流れる一貫性を感じます。千年以上にわたっていろいろな人が書いているのに、不思議とそれを超えた大きな流れがあることに気づかざるを得ません。
罪を犯した人間は、神の世界から追い出され、罪の生き方へと堕落していく。だが、神はアダムに人類の救いを約束され、アブラハムの子孫、ユダ部族、ダビデの子孫から、ひとりの男の子をこの世に救世主として誕生させ、人々を救うようにされました。救世主が現れることは、すでに『聖書』の最初の創世記の時点で約束されていて、次第にそれが詳しく明らかになり、その流れの中でイエス・キリストは誕生します。その救いは、教会時代を通して世界中に広がり、「ヨハネの黙示録」の新天新地で最終的に完成します。
「ヨハネの黙示録」の21、22章などは、「創世記」の1~3章とそっくり対応していますから、まるで一人の著者が書いたような気さえします。そう考えると、見知らぬ人々が千年かけて、〝偶然まとまりのある一冊の本を書いた”というよりも、何十人もの人々が〝個人の想いを超えた大きな霊感に導かれて書いた”という方が納得できます。このように執筆された本は、ほかに知りません。もうひとつ、面白いと思うのは、聖書が現代でも古くならないことです。二千年も前に書かれているのに、いまだに普遍的で、人の人生を変える力をもっています。科学的に正しいとか間違っているとか、矛盾があるとか、意見はいろいろあると思いますが、それを超えて、今でも現代社会に残っている本ですね。専門家しか読まない古典になってもおかしくないのに、そうじゃない。毎年、世界中で新しく出版されている。これは興味深いことです。
聖書には、処女降誕とか、イエスが水の上を歩いたとか、死んだ人を生き返らせたとか、最初から最後まで、有り得ないようなことが書いてあります。それでも、今なお多くの人たちに影響を与え続けているのです。
パウロという人物も言っていますが、このイエス・キリストの十字架と復活は、信じない人から見たら「愚か」です。でも神は、この愚かさを通して、信じる者を救おうとされたのです。
だから私は『聖書』に書かれていること、イエス・キリストを救い主、神だということを信じています。記されている出来事の荒唐無稽さと、それと相反するような精緻な一貫性。神が本当にこの世に来たのであれば、「有り得ない」ことが起きたというこれらの記述は、人間に想像できないことが書かれているという点で、とてもリアルだと思うのです。

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聖書に書かれている「福音」を信じるかどうかは、一人ひとりが自分で決めることです。考古学はその証明にはなりません。しかし、古代イスラエルの社会や文化を知ることは、聖書を身近に感じ、正しく理解するのに役に立つと思います。私は偶然、考古学を学ぶようになりました。ですが、学びながら、「ああ、こういう状況だったから、アブラハムはこんな行動をしたのだな」「こういう問題があったから、イエス・キリストはこう語られたのだな」と、小さな気づきと感動をいつももらっています。