翻訳者の書斎から 4 チャレンジを与えられて

須賀 真理子
日本福音キリスト教会連合 川越聖書教会 会員

 小学校高学年の頃だったと思うが、大変衝撃的な話を聞かされたことがあった。だれから聞いたのかは覚えていないが、「アメリカ人大富豪の御曹司がニューギニアで消息を絶ち、現地の首狩り族に殺されて食べられてしまったらしい」という話だった。

 猟奇的な事件や常識を超えた物騒な事件が日常茶飯事と化した昨今とは違い、のどかで良識的な環境に育った(少なくともそう思えた)当時の私には「人が人を殺して食べる」などということが今もこの世界で現実に起きているという話はとうてい信じ難く、大変なショックだった。「なぜ首を狩るのか。人肉とはどんな味がするのか」などと想像すると、イメージは勝手にふくらみ、おぞましい映像となって脳裏に焼き付いた。その後しばらくは「ニューギニア」という名を耳にするたびに、その映像がよみがえり、怖がっていたものである。

 しかし、そんな私も中学、高校での学習を通して、恐怖の島「ニューギニア」は、実は私たち日本人が戦争に巻き込んで、物心両面で多大な損害と恐怖を与えた島だという事実を知った。また泥沼化したベトナム戦争、世界各地で頻発する戦争や内紛の悲惨な様子が日々刻々と新聞やニュースで報じられ、多感な頃の私に「なぜ、人間はこれほどまでに戦うのか。どうしたら戦争をやめさせることができるのか」と考えさせた。しかし、静まって考えると、私自身の中にも首狩り族や戦争当事者と変わらない「残忍性や自分を第一とする自己中心性」があることに気がついた。それを「罪」と呼び、それはイエス・キリストの十字架のあがないによってしか解決しないこと、罪の赦しを得て真の神と和解し、その神に喜ばれる人生を送らなければ生きる意味がないことを知り、悔い改めて神に応答するまでには長い年月を要した。

 私が洗礼を受けたのは、今から約十年前で、その翌々年から所属教会の主催の英会話教室で講師の助手を務めることになった。講師が近所の子どもたちに英語を教えた後、みことばを短時間でわかりやすく伝えるという奉仕である。この奉仕と子どもたちのために毎日祈り、準備を重ねてクラスに臨んだのだが、授業が終わると一刻も早く帰宅したい子どもたちは、浮足だって騒がしく、おいそれとは話に耳を傾けようとはしなかった。神にゆだねきれず、気負って奉仕を続けた私はやがて疲れを覚え、奉仕をやめたいともらしたことがあった。そんなとき講師の女性がニューギニアの首狩りを風習とする部族のところに遣わされた宣教師の物語『ピース・チャイルド』を紹介してくれたのだ。彼女の口から出た「ニューギニア」「首狩り」という言葉に私は非常に驚いた。「まさか三十数年前のあの事件の……」その宣教師の働きを通して首狩り族の人たちがイエス・キリストを信じるようになったと聞いてもう一度驚いた。

 そしてそれを聞いたとき、「それが事実なら、その部族のだれかが今頃、騒がしい子どもたちに一生懸命に福音を語っているかもしれない」という思いがふとよぎった。すると急に彼らに興味と親しみがわき、ぜひこの本を読んでみたいと思った。

 書店に問い合わせたところ、日本語訳は出版されていないという。原書で読んでみると、エキサイティングで感動的な内容にすっかり引き込まれた。読み進むうちに、このすばらしい本を何とかして他のクリスチャンや神学校の学生にもぜひ読んでほしいと思うようになった。すでに二十数カ国語に翻訳されているのに、日本語訳がないとは……。誰かが翻訳すべきだと思った。

 しかし私の英語と日本語の能力ではこの大作を翻訳することなどとうてい無理であるし、ましてその土地の風土についてはまったくの無知なのだから、神が適任者を起こされるまで待つしかないとあきらめかけていた。しかし、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と主にすがりついた異邦人の女(マタイ15:27他)の姿がしきりに思い出され、次第に、「神さま、願いばかりで力の足りない私ですが、どうか用いてみてください」と祈るようになった。そして一日の仕事を終え、深夜に受験勉強中の息子とどちらが遅くまでがんばれるかなどと内心、競争しながら、ひたすら神の知恵を求めて翻訳作業に取り組んだ。そして神は祈りに応え、助け手としてW・クック氏を備えてくださり、ついに完成にまで導いてくださった。

 まったく未知の隔絶した地に、信仰一つで出て行った著者夫妻にも、そして力不足の私にも、神は「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(2コリント12:9)といわれ、それを証明してくださった。

 戦争の廃絶と真の平和は、神のピース・チャイルドによる以外に実現しないことを世に知らしめるために、神は今後も私たち一人一人に様々なチャレンジをお与えになることだろう。