翻訳者の書斎から 3 黒子として

和泉 康子
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 広島キリスト教会三滝グリーンチャペル会員

「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」(マタイ18:14)

 ある日、教会の牧師先生からどのような内容か、ざっと目を通して教えてほしい、と頼まれたのが『魂の傷を癒すあわれみのミニストリー』との最初の出会いでした。訳しながら、これは1人で読むにはもったいないと思い、同じ教会に集う2人の姉妹に声をかけ、3人で訳すことにしました。そして作業を進めるうちに何とか本として多くの方に読んでいただきたいという思いが与えられ、出版となりました。

 それぞれが自分のパートを訳し、互いの文章を検討しあいました。特に著者の情熱、意向を黒子となって明確に伝えること、読者には読みやすいことに留意しました。何かが世に出るときには、「産みの苦しみ」が伴うものですが、訳しながら「なるほど」と教えられたり、共感したり、感動したり、苦労よりも恵みの連続でした。

 著者ナンシー・アルコーンは高校生のとき、惰性で教会に通い、表面的にはいい子ちゃんのクリスチャンでした。しかし挫折の経験から、自暴自棄になり、荒れた生活をするようになります。そんなある日、友人に誘われて証し会に出て、そこで信徒たちの真実な証しに心うたれ、真の救いへと導かれます。その後、人にクリスチャンであることさえ言えなかった彼女が、ビジョンを与えられ、聖書の御言葉と祈りのみを頼りに、虐待に苦しむ少女のため、また道をはずして妊娠してしまった少女のためのホームを建設します。そして魂が癒されなければ、神の赦しと愛を体験しなければ、本当の回復はないと訴え、聖書の価値観に基づいて、少女たちの指導に尽力しています。

 虐待を受けた子どもは当然、親を赦せず苦しんでいます。彼女は「赦すということは決断であって感情の問題ではない。もし赦すという感情が起きるのを待っていたら、決して人を赦すことはできないだろう」(133ページ)と言います。

 今日、家庭も学校も、そして社会も教育が下手になったとよく言われます。権威も基準も方向性もないなかで、子どもを導くのは不可能です。そして、子どもも迷うのです。

 本書に登場する出来事は、遠いアメリカのひどい話だと思われるかもしれませんが、幼児虐待は近年日本でも急増しています。守ってくれるはずの家族から虐待され、ときには死に至っているということをニュースなどで聞くとき、どんなに辛かっただろうと胸のつぶれる思いがします。

 また若者の性の問題も深刻です。いつの時代も「今の若者は……」と大人は言いますが、それだけではすまされない危機を感じます。かつてリンカーンは、学校のクラスの状況は30年後の社会の状況だと訴え、教育に力を入れました。今の若者の状態が20年、30年後の状態です。中絶のためにカンパすることを、まるで友情のように感じる道徳観。気軽に異性と交わる道徳観。大人になって正しく子どもを指導し、育てられるのだろうか。自分を本当に好きになれるのだろうか。振り返っていい青春時代だったと懐かしく思えるのだろうか。そんな疑問がわいてきます。

 本書にも道徳観に混乱している少女が登場します。彼女たちは、聖書に基づいて正しい倫理観、人生観を教えられ、もつれた混乱から解放され、豊かな人生、生きていて良かったと思える人生へと変えられていきます。

 本書は、同時にクリスチャンへのチャレンジも投げかけています。以前メキシコ人のビジネスマンの講演を通訳したことがあります。その当時メキシコは、大変な経済状態にありました。彼は「メキシコ人は有能で意欲もある。しかし、政治腐敗がひどく誰も政治家に意見を言うことができない。今の危機を打開するにはどうしたらよいのだろうか」と聞いてきました。彼が、国を心から愛していることはよく分かりました。私は逆に、メキシコにはどれくらいクリスチャンがいるかと尋ね、「まずクリスチャンが悔い改めて祈るのが大切ではないでしょうか」と答えました。

 今の日本は、経済、道徳、社会的に危機的状況にあり、その解決に決定的な策がないのが現状です。各方面での取組みも大切ですが、クリスチャンが悔い改め、祈ることこそ鍵ではないでしょうか。「鍵は教会にある。神の民は軌道を外れた人がもとに戻るのを助ける義務と特権を持っている。」(242ページ)

 本書の推薦文を書いたカル・トーマスは「アメリカが直面している道徳的、社会的、政治的問題は、クリスチャンひとりひとりが塩けをなくした結果だと思います」(6ページ)と言います。私たちには責任があります。私も1人の日本人クリスチャンとして祈っていきたい、そんなチャレンジを与えられました。神さまが著者に与えられた志を翻訳という形で受け継ぎ、読者の中から神さまに導かれる方、あるいはチャレンジを与えられる方がおられるとしたら、この翻訳者としての任をまっとうすることができたのではないかと思います。