沖縄から「平和」を考える キリストにある真の平和を求めて
 敗戦後五十六年にあたって

平和の礎
渡眞利 文三
沖縄バプテスト連盟 胡屋バプテスト教会  主任牧師

 五十六年前の八月十五日は、太平洋戦争敗戦の日です。私は当時二十歳、沖縄の南の島、宮古・陸軍歩兵部隊に入隊、米軍の上陸に備えていました。その日から、戦争と死から免れ、平和と生に向かって、全く新しい人生が始まりました。

 今日の青少年たちには、去る大戦が五十六年前の過去の物語として、遠くかすみがかったもの、現実感覚のないものになっていないでしょうか。その悲惨さについては忘れるにまかせた方がよいのでしょうか。忘れることは天災でなく人災です。そして無知と怠慢の責任が問われ、まったく弁解のできないものとなるのです。

 今の若い世代だけでなく、多くの人々は核戦争になれば、人類は絶滅するだろうと感じています。しかし心の底ではそんなことが起こることは、実際にはありえないことだ、と楽観しています。しかしそうした全く考えられないことが、思いがけない時に、突然起こることを歴史は教えています。

 敗戦後、今日まで半世紀にわたって、何とか核戦争は抑えられてきました。今後、二十一世紀に向かって、若い世代が自分の人生とともに、人類の運命をどうきり開いていくのでしょうか。戦争を過去のことと思わず、今、私たちで考え、一人一人が担っていかねばならない課題があります。私たちは、一個の人間として、一キリスト者として、教会人として、それをどれだけつきとめることができるか、今後、新しい世紀をどう生きるか、静かに思いめぐらしていただきたいと思うのです。

 戦争が、始まったころ、敗戦など考えられないこと、思いもよらないことでした。この敗戦、降伏が天皇によるラジオ放送から、突如知らされた時、怒り、悲しみ、泣き、あるいは喜び、ホッとし、平和への希望など……、人によって反応に違いはありましたが、私は呆然となりました。あれほどの激戦をしながら、私たちは無知だったのです。日本軍の情報は、戦局の勝利の面ばかり誇張し、敗北はひた隠しにしていました。決して負けることはないと思わされていました。つまり正確な情報が知らされていなかったのです。
 
 今日、言論の自由が保障され、情報は氾濫しているようにも思えますが、例えば核戦争を、どうしたら追放できるかといった人類の問題についてはあまり関心がもたれず、経済大国という奢りが、至る所に現れているようです。

 さて沖縄は、先の戦争において激烈な戦場となりました。歴史上まれに見る悲劇を生んだのです。その悲劇は、皇民化教育と軍閥主義のもたらした当然の結果でした。天皇の赤子は、いざという時、恥ずかしくない死に方をせよと教えられていたからです。当時の教育者は、このような天皇の赤子となる人間教育をして自分の教え子たちを戦場に送ったわけです。この痛みを経験している沖縄の教育者は、戦後、平和教育に熱情を注ぐようになりました。

 六月二十三日は沖縄戦が終わった日です。この日を「慰霊の日」と呼び、沖縄だけは休日となりました。そしてまた憲法記念日の五月三日、祖国復帰した五月十五日、その日を記念して、沖縄の教育界では、戦争の悲劇を想起させて、平和教育がなされています。教会では二月十一日に「信教の自由を守る二・一一」の集いを開き、また八月十五日の「終戦の記念の日」にみことばの学びと祈祷会を行っています。

 沖縄は二十九年前、本土に復帰しました。しかし、なお日本における軍事基地の七十五パーセントは、この小さな沖縄にあります。沖縄はまさに不沈空母なのです。ベトナム戦争、湾岸戦争の前線基地となり、また様々な軍事訓練が行われ、今日もなお戦争の悪夢は消え入りそうにありません。そして戦争と平和について語れる人たちが、だんだん少なくなってきており、こうした戦争の悲劇を語り継がねばならないと感じています。

 イエス・キリストは、平和の王として世においでになりました。自ら犠牲となり、十字架上で血を流すことによって、命をかけて、真の平和をこの地にもたらすためにおいでになったのです。キリストの平和は、犠牲によってもたらされる平和なのです。

 エペソ人への手紙第二章に「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」(一四節)とあります。「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」(一六節)。戦争を起こさせるものは敵意です。平和をもたらすためには、それを取り除き、滅ぼさねばなりません。イエス・キリストは、十字架によって、敵意の中垣をこわし、神との和解をなし、平和をもたらしたと記しています。キリストは、決して武力や圧力で平和をもたらそうという方ではありません。真の和解を実現させるために、犠牲になって平和をもたらそうとされました。

 キリストを抜きにして、真の平和はありません。平和はキリストの十字架の犠牲を通して、私たちにもたらされているのです。