時代を見る目 204 21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 3

柳沢 美登里
「声なき者の友」の輪

21世紀の効率至上、利益至上主義社会で、キリスト者日本人があえて「目先の損」を選ぶ生き方を前回、提案した。キリストが、現代日本社会の大多数の人々を覆う「どうしようもない無力感」に対する「神の国」の逆説的な解決策を提示しているからだ。
複雑な社会の課題を解決することは人間には無理だ、という諦めが静かに人々の心を締めつけている。キリスト者はもちろん、人間万能主義者ではない。が、裏を返すと「私たちは無力な人間。何もできない。神が立ち上がってくださるときまで、じっと待つしかない」と完全な受け身姿勢に陥ることがある。これは、日本人がしばしば使う「仕方がない」論理の反復だ。
創造力や人格関係という「神のご性質」に造られた人間への神の期待は何だったのだろう。「『神の国』に行けますように」という祈りではなく、「『神の国』が来ますように」と教えてくださったキリストが、人に願ったことは何だったのだろう。
聖書は繰り返し、どうしようもない者を驚くべき恵みで呼び出し、みわざに関わるように招いて託される神の歴史上の導きとご計画を物語っている。
私たちは、この地上に「神の国」が近づくために呼び出された。これを可能にするのは、「永遠のいのち」を与えられていることを、この地上で実践する生き方だ。
それは、キリストが生きたように天の父の意志を自分の意志で選び取り、隣人を愛すること。地域と世界の隣人が、神の与えたその人独自の賜物と可能性を開花させ、社会の欠かせない一員として生きることができるように支援すること。個人レベルの善いわざに留まらず、経済活動(企業も家庭も)、地域社会、政策立案で神が願われるように人が成長する聖書の原則を組み入れた制度を提案し、実践すること。
「目先の損」を選ぶとは、「効率」を超えて、こうして生きることだと信じたい。
そのとき、私たちは神から力を与えられ(エンパワーされて)無力感を突破するだろう。「キリストの体」である地域教会は、まさにその「先駆け」モデルになることを期待されている。
これは実現可能だろうか。
私たちはその答えを知っている。2011年の「今」、「そのときが来た!」と呼びかけられているのだから。