時代を見る目 181 子どもの世界<1>
人の心の教育法
手本を示したイエス

瀬底ノリ子
カンバーランド長老 高座教会/社会福祉法人星槎青葉台保育園勤務

 夏休みに、広島で開催された国語教育の研究会に参加しました。その中で「いま学校で教師たちは、授業はしているが、教育をしていないのではないか」という発言に接し、はっとさせられました。授業と教育はどう違うのでしょうか。恩師の言葉を思い出しました。

  「教育は投薬ではない。
 それは生まれ出た人の子が、人の心を獲得していく過程を保証することである」

 また、恩師は「保護者、教師の仕事は、子どもたちがその成長過程で、どのように心を動かし、人が生きること、人の生きる意味をどう獲得し成長するのかを、子どもたちの心のそばにいて見守り、その心に共感していくことだ」と繰り返し語っていました。この思いは、教室の中で一定の教育指導要領に従って授業し、テストして評価する現行の学校教育のあり方と根本的な差違があります。授業はされているけれど教育はされていない子どもたちは、どこで人の心の教育を受けているのでしょう。


  主イエス・キリストと共に生活した弟子のヨハネは、手紙の中でこう記しました。

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(中略)子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(ヨハネの手紙Ⅰ 3章16、18節)

 ヨハネは、師である主イエス様との歩みの中で、言葉によって語られたメッセージと共に、行いと真実によって表された神の愛に生きる者のあり方を目の当たりにしました。それを間近で見て、肌で感じ、キリストご自身を学び、自分もそのように生きたいと切望し、人々にもそのように生きようと語りかけました。主はヨハネの成長を見守り、その信仰を保証し、証し人として送り出されたのです。

 今、伝道のこと、教会学校のこと、遣わされている職場での働きのことを考えるとき、身の引きしまる思いがします。「伝道は投薬ではない」ことは確かです。愛する隣人と共に生き、不完全で不従順な者を、主がどのようにとらえ、愛してくださったか、主の御愛と真実がどのような事実であったか、主にとらえられた者がそれぞれの歩みの中で、隣人と共に聖書を読み、共感し、聖霊の御業を隣人の中に見出す歩みを続けたいと願います。