時代を見る目 178 現代ドイツ文学の世界から<1>
映画「愛を読むひと」原作者の信仰

松永美穂
日本同盟基督教団・徳丸町教会員/早稲田大学文学学術院教授

 ドイツ文学研究者の端くれとして大学で教鞭を執る身であるが、ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』を翻訳したことで、人生が少し変わったような気がしている。それまでに自分が翻訳した作品はとてもマイナーだったので、出版してもほとんど反響がなかったのだが、『朗読者』はその年のベストセラーとなり、大きな書店ではワゴンに平積みされ、小説の評判だけがどんどん一人歩きしていった。この小説は、著者であるシュリンクの人生をも大きく変えたのではないかと思う。趣味でミステリー小説を書く大学教授から、世界的に有名な作家となり、ベルリンだけではなくニューヨークでも暮らし始め、一作ごとにマスメディアの注目を集めるようになった。

 シュリンクの父親がプロテスタントの神学者であったことはよく知られている。実家の雰囲気と信仰について、彼が2年前にターゲスシュピーゲル紙のインタビューに答えて語った内容を、以下に要約しつつ紹介したい。

 第二次世界大戦のさなか、1944年に生まれたとき、父親は彼に「平和の人」を意味するイレネウスという名前をつけようとしたそうだが、出生届けがその名前では受理されず、ベルンハルトになったのだそうだ。彼の家庭は宗教的なイベントをとても大切にしていた。受難日には家族全員でマタイ受難曲のコラールを歌い、平日にも夕食後は必ず聖書を輪読したそうだ。「そうした習慣に反抗しなかったのですか?」との問いに、シュリンクは「反抗しませんでした。うちに同級生が来たときなどは、同級生もびっくりしながら、でも喜んで聖書輪読に参加していましたよ」と答えている。

 『朗読者』の主人公ミヒャエルの父親は哲学者という設定になっている。自分とアウシュヴィッツの元看守であるハンナとの関係について、ミヒャエルはついに父親には打ち明けられずじまいになる。近々封切られる映画『愛を読むひと』(『朗読者』の映画化/6月19日公開予定)では、主人公の親子関係はさらにそっけないものとして描かれているが、ターゲスシュピーゲル紙のインタビューを見る限り、シュリンクは実家のキリスト教的雰囲気をいまでも懐かしみ、自身の信仰も大切にしているようだ。

 世界のあちこちを旅する際にも、できるだけ現地の教会に行くようにしている、と語っているシュリンク。2006年には2週間ほど日本に来たのだが、どこかの教会に行ったのだろうか? もし今度お会いする機会があったら聞いてみたいと思う。