文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第25回 知恵文学の解釈 上

関野祐二
聖契神学校校長

 「聖書はあなたに知恵を与えて……」(Ⅱテモテ三・一五b)とあるように、知恵とは聖書全巻を通して神が信仰者にもたらす賜物。とりわけ、旧約聖書には「知恵文学」と呼ばれる独特の文学ジャンルがあり、古代ヘブル人の思想文化を用いた神からの知恵が凝縮されています。「箴言」「ヨブ記」「伝道者の書」がこれにあたり、加えて「雅歌」と詩篇の一部も知恵文学を構成するでしょう。混迷する現代社会にあって真の知恵者となるため、もっと知恵文学に親しみませんか。

 ●「知恵」とは何か知恵文学における「知恵」とは、いわゆるIQとは無関係の、「人生において信仰的な(信仰深い)選択をする能力」と定義されます。それは机上の抽象概念と異質な、人生における実際的選択の現場、真理に従って行動する道行きにこそ存在するもの。確かに、私たちの人生行路を振り返るなら、今の自分とそのあり方は無数の「選択」の結果として見ることができるでしょう。今日のお昼に何を食べるかの類は、毎日繰り返す軽微な選択ですが(ある人には重大かも)、どこに住むか、誰と結婚するか、どんな仕事に就くかなどは、決めるまでに時間のかかる、しかも頻繁には繰り返すことのない重大な選択。それは自分で決めたように見えて実のところ、私たちを導く神の摂理的計画と選択の結果です。

 ● 神を畏れた選択最善の選択こそ最高に知恵ある人生を導く、これは古今東西の知恵文学に共通の答え。聖書はこれに加えて、唯一最善の選択とは神を畏れつつみこころにかなった選択をすることであると結論づけます。知恵の第一歩は神を知ることであり(箴言一・七)、実際に自分の人生を神におゆだねする姿勢でしょう。これは人間的賢さよりむしろ、方向性が神に向いているか否かなのです(ヤコブ一・五)。祈り求めるなら、神は私たちがよりみこころにかなう選択をなし得るよう助けてくださるに違いありません。

 ● 知恵は実際的親たる者は、しばしば意識せずして子どもたちに知恵を与えています。それは子どもたちがこれからの人生において正しい選択を積み重ね、子ら自身が満ち足りて幸せになるとともに、他者をも幸せにするよう行動させるため。その場合の知恵とは、理論よりもおおかたは具体的なアドバイスでしょう。知恵文学では箴言がまさしくその役割を担っており、みこころの選択をすることでどのように成功したか、真理を経験や行動に適用しています。しかし、扱っている問題はきわめて実際的な社会問題でも、その知恵がすべて神の知恵に従属したものである点は見逃せません。

 ● 知恵の形式と様式正しい選択能力向上に役立つ方法のひとつは、討論や議論をすること。「伝道者の書」は、他者が読んで自分を顧みることを意図した独白の形式ですし、「ヨブ記」は真理と人生に対する意見交換の問答を記録した談話形式をとっています。別の分類で、「箴言」は格言的知恵、「伝道者の書」「ヨブ記」は思索的知恵、「雅歌」は叙情的知恵とも呼ばれます。思索的といっても、それはきわめて実際的かつ経験的ですから、知恵文学は頭でっかちの哲学思想とかけ離れた、現場感覚豊かな書と言えますね。

 知恵文学の文学様式は、そのほとんどが詩文体。これには理由があって、知恵を記憶するための助けとなるよう、リズム感あふれ散文体よりも覚えやすい詩文体が用いられているのです。さらに、箴言三一・一○―三一にある「賢い妻」は、各節の文頭がヘブル語二十二文字で始まる「いろは歌」ですし、伝道者三・一―八「時がある」が頭韻を踏んでいたり、同義語、対照法、隠喩や寓喩の比喩表現など、詩的技巧に富んだ詩文体が随所に登場。記憶し、生活化してこそ、知恵が信仰生活に生きて働くのですね。

 ● 知恵文学の誤読こうして、今日に生きる私たちが聖書の知恵文学を読もうと決意するのは賢い選択なのですが、誤読のリスクも高いジャンルですから要注意。たとえば「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(伝道者三・二a)を、神は私たちのため寿命を選び分け定めてくださると解釈するのは、伝道者の書全体に流れるメッセージを無視した読み方です。この聖句は、人生がつかの間の、理解しがたく捕らえどころなきものという文脈に置かれた叙情詩。人の生活や活動の干満がいかに神によって定められ、人間の制御によらぬものなのかをシニカルに教えているのです。

 また、「愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない」(箴言一四・七)の「愚かな者」とは、知的能力の劣った人ではなく、神を認めない「不信者」のこと。

 さらに、「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。横暴な者にも、ある年数がたくわえられている」(ヨブ一五・二○)とは、ヨブの友人エリファズのことばで、ヨブの受けた苦難をヨブの落ち度に帰す過ちが、後に神から叱責されるわけですから、全体の対話形式を知らずにある部分を取り出して、教訓と受け止めてはならないのです。文脈、用語、全体のメッセージと意図をたいせつにしましょう。