希望への道程
 アフガン難民学校の現場から
第一回 アメリカとソ連の狭間で

浜田文夫
燈台(アフガン難民救援協力会)現地代表

 アメリカは苛立った。

 一九五七年モスクワを訪問したアフガニスタンの国王ザヒル・シャーは、国家の近代化のために多額の援助をソ連に申し入れた。一方で、ワシントンにも足を運び、アメリカとの友好関係を保つ努力を怠らなかった。アメリカはその真意を量りかねていた。

 第二次大戦後、米ソ両国は同盟国作りに奔走し、世界各地に援助合戦を繰り広げた。両国はまた、さまざまな援助プロジェクトをテコにアフガニスタンでも影響力を競い合った。しかしインド洋に港湾を持つと言うソ連の長年の夢を果たすため、その通過点としてのアフガニスタンの魅力は、アメリカよりもソ連にとってより大きかった。それは七二年までにアメリカを抜いて、アフガニスタンに対する最大の債権国になったソ連の援助の額にも現れた。

 優柔不断なザヒル・シャー国王はいとこのダウドによる無血クーデターで、ローマへの亡命を余儀なくされた。一八九三年にイギリスによって引かれたアフガニスタンとパキスタンとの国境によって、その領土を二分されてしまったパシュトー人であるダウドは、パキスタン側の領土を取り戻すための熱意を表すことをはばからなかった。それはインド洋を目指して南下するソ連の思いと一致し、両者の関係はより深まることになる。そのころアメリカの、支援に対して実りの少ないアフガニスタンへの魅力と関心は薄れていく。

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 国家の近代化に教育の普及が欠かせない役割を果たすと考えた指導者たちは、アフガニスタンの各地に学校を作ることに励み、六年生までが義務教育とされ、女子の教育も義務付けられた。しかし、もともと地方での教育はイスラム寺院であるモスクがその役目を担っていた。そこではイスラムを教えることが主な目的で、世俗の教育は信仰の妨げになるとしてイスラム指導者たちに嫌われた。

 地方のイスラム僧侶たちは、子どもたちの両親に、子どもを学校に行かせないようにと説いた。また、中央政府から派遣されてきた教師たちには、賄賂を渡して子供たちを教えないように協力させた。こうしてイスラム指導者たちは子どもたちが学校で学ぶことを妨げた。

 ダウドを始め共産主義者たちによる急激な国家の近代化は、このようにして、熱心なイスラム教徒たちの反発を招くことになる。やがて各地で役所や学校の焼き討ちが起こった。政府はそのたびに厳しくイスラム勢力を弾圧し迫害した。首都カブールにおいても大学での反政府運動が弾圧された。

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 一九七〇年代後半、イスラム原理主義者たちの多くは、隣国パキスタンのペシャワールに逃れ、パキスタン政府の時の指導者アリ・ブットや、後の指導者ジア・ウル・ハクの強力な支持と保護とを受けながら、ダウッド政権への反抗を続けた。これらのイスラム勢力の中にいたヘクマティアル、ラバニ、マスードたちは、後にムジャヒディン(イスラム武装勢力)を率いることになる。

 一方、多大なソ連の支援の中、世俗のエリートたちはモスクワの大学で高度な教育を受けてアフガニスタンに帰ってきた。これらのマルクス主義シンパたちの半分は、はじめダウド政権を支えたが、やがてその支持を弱め、次のクーデターを準備する。ダウドによる無血クーデターから五年後の一九七八年四月、この新たなクーデターに抵抗を試みたダウドは、家族もろとも殺害された。だが、ダウドを葬り去った共産主義者たちも一つにはまとまらず、派閥争いが続き、国は安定を欠いていた。派閥争いのバランスが一度崩れると、粛清が始まる。

 多くの軍人、閣僚、外交官、学者、医師、実業家、公務員、学生、ジャーナリストたちが、政治犯として刑務所にあふれた。こうした高い教育を受けた世俗のエリートたちは、政権が変わるたびに、前の政権下や派閥で働いていたというだけで命を落として行った。

 そうした中でも、同時に社会主義的な施策は進められて行った。それは保守的な地方との対立も続いて行ったことを意味する。また隣国に逃げた反政府ゲリラたちは、アメリカ、パキスタン、イランなどの支援を受けて、それぞれの抵抗を続け、政権を一層不安定にした。

 アフガニスタンの政権を支持するソ連はさらなる安定を政府に求めたが、派閥争いのバランスは均等には戻らず、逆に傾いてソ連の不興を買うことになった。そのような中、一九七九年十二月ソ連の軍事介入と言う後ろ盾を得て、カルマル政権が誕生することになる。短い数か月の間に政権が二転三転した後、アフガニスタンは米ソの高まる冷戦の最前線に放り出された。

 ソ連のアフガニスタン侵攻によって、多くのアフガン人が、イラン、パキスタンへと難民として逃れた。カブールからカイバル峠を経てペシャワールに続く道に、難民となる多くのアフガン人たちに混ざって一つの日本人家族がいた。