寄りそうということ ◆日々、迷い悩みながら……

坂岡隆司
社会福祉法人ミッションからしだね 理事長

福祉の仕事をしながら、「寄りそう」ことにこんなにも近く、かつ遠い世界はないのではないかと思っています。
私たちの「からしだね館」は、地域で暮らす精神障害者の自立や就労を支援する施設なのですが、果たしてどのような支援がその方の自立や回復につながるのか、日々迷い悩みながら自問自答を繰り返しているのが実情です。
毎日の朝礼でも「人の痛みや弱さに寄りそうことのできる、あたたかな援助者としてください」と職員皆で祈るのですが、ではその寄りそうとはいったいどういうことなのか、必ずしも分かっているわけではありません。

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 これはわが職場のワーカーの体験談です。彼女は数年前、がんで母親を亡くしたのですが、付き添っているときに、時々死期についての話になったそうです。福祉のプロとして常に学んでいるはずなのに、まともに母に答えられずオロオロするばかりだった、ひどい娘だったと彼女は告白していました。
もうひとつ、これは親しくしているある牧師の話です。神学生だったころ、訓練に耐えられず行き詰まって、とうとう寮を逃げ出してひと夏を母教会で過ごした。恩師である婦人宣教師は、そういう自分をただ黙って受け入れてくれた。何も言わず、何も訊かれなかった。それでも夏が終わるころ、自分はもう一度神学校に帰って行くことができた。ざっとそんなお話でした。

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これらのエピソードを聞きながら、「寄りそう」とは実はそういうことなのでは、と思っています。
それは、必ずしも何か具体的に手を差し伸べることではないかもしれませんし、また教えることでも導くことでも、あるいは助けるということでもないのかもしれません。
オロオロしながら母のそばに立ち続ける娘。神学校から逃げ帰ってきた青年を黙って迎え入れる婦人宣教師。彼らは、ただその人の傍らにたたずんでいるだけです。でも、その心は痛いほど愛する者たちに向かっています。その気配が人に安心を与えたり、もういちど自分自身に向き合うことをさせたりするのではないか、と考えるのです。
正直なところ、障害をもった方々を支援するという仕事をしながらつくづく思うことは、人間の複雑さや生きることの難しさ、そして支援者の無力さです。そうした限界をわきまえつつ、あえて隣人の傍らに立ち続けること、それが寄りそうということなのかなと思っています。

1Fがカフェ「triangle」となっているからしだね館
http://www.karashidane.or.jp/