信徒のための注解書を使った聖書の読み方入門 第2回 注解書の特質を生かす

水谷恵信
札幌キリスト教会召団 牧師

 注解書にはそれぞれ特徴があります。原語に忠実なものもあれば霊的に鋭い理解を示すものもあり、数千年昔に書かれた記事の今日的な意義について深い洞察を示すものもあります。私たちはそうした特質をよく理解したうえで、それぞれの注解書を利用しなければなりません。

 原語に忠実な理解

 どの注解書も当然、原語に忠実な解釈を施すように心掛けていますが、ひとつひとつの単語の意味に逆上って、それを解釈に忠実に反映させようと苦心している注解者がいます。『ヨブ記のモチーフ』の中沢洽樹氏などに私はその代表例を見ます。彼の私訳にも如実に反映していますが、解説の随所にそれを見ることができます。

 例えば「ヨブ記」二十章二十九節の「悪しき人間」の原語が五節の「悪人ども」と違って、特に人間=「アダム」という語が加わっていることによって、ゾパルのヨブ批判に人類の始祖の原罪を含意させている、という解釈を示していることなど、良い例だと思います。

 その他にも荒井献氏とその門下の学者諸氏の時代に先駆けた仕事にも教えられるところがたくさんあります。ATDNTDの注解もそれぞれの学者の明確な主張の下に書かれた説得力のある解釈ぞろいで、熟読すべきものです。

 私はギリシャ語もヘブル語もほとんど読めないのですが、日本語と英語の聖書を比較して分かることは、ひとつの原語の意味を日本語の一単語に移すことがどんなに困難か、ということです。

 詳訳聖書の出版はそうした問題を解決する試みのひとつだったと思います。幾つかの単語を並立に重ねて示してくれて初めて一つの原語の意味が浮かんで来るということを、私は詳訳聖書を利用しながら、何度も体験しています。

 また、どこの言葉でもその民族の生活習慣や風俗・文化を反映しています。それをまったく理解せずに言葉だけを理解しようとしても無理があります。注解書は原語のそうした背景を理解する手助けになってくれます。

 霊的に鋭敏な理解

 C・H・マッキントシ氏は「レビ記」「民数記」「申命記」など、私たち日本人には退屈極まりない聖書箇所を、実に感動的に講義してくれます。その特徴は、律法のひとつひとつを聖書全巻を駆使して、しかも霊的に解釈するところです。

 例えば「レビ記」で“全焼のいけにえ”について学ぶ時、一章三節の英欽定訳「彼はそれを自発的に主の前に捧げなければならない」の《自発的》に着目して、イエス・キリストのゲッセマネの祈りにおける“完全な従順”にまで話をつなげて解説するにあたり、また、十四章四~七節の重い皮膚病の癒しの確認の記事をキリストの十字架による贖罪に関連させて、ヨハネ伝やヨハネ書簡やヘブル書を使って実に感動的に語るあたり、私は思わず拍手せざるを得ませんでした。

 B・F・バックストン氏の聖書講話は、講義をそのまま書き取ったもので日本語としてはやや奇妙です。しかし、霊的には教えられるところが多くあります。F・B・マイアー氏の旧約聖書の人物シリーズも霊的な聖書注解として読めば、本当に豊かな実りを得ます。

 今日的理解

 デイリー・スタディー・バイブルの「詩篇」の注解者、G・A・F・ナイト氏は、何千年も昔のイスラエルの詩を生き生きと理解させるために、シェイクスピアの悲劇やロバート・ブラウニングの詩の一節を用いたり、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦や南アフリカのアパルトヘイト、核戦争など現代的問題と関係づけたり、A・ソルジェニーツィンの「収容所群島」を引き合いに出したりして、縦横に論じています。

 石黒則年氏も新聖書講解シリーズの「詩篇」の注解で、各詩篇に「現代への適用」と小見出しを起こして、意識的にそれを説いています。