中国クリスチャン事情
~今、信仰を求める人々 十七歳の少年が見た、一九九二年の中国

荒井恵理也
hi-b.a.代表スタッフ

教会から離れて五年が経った十七歳の春。中国返還を五年後に控えて、お祭りムード一色の香港から鉄道に乗って広州に降り立ちました。かばんには税関の検査を潜り抜けた中国語の聖書を一冊隠し持ちながら。
それまでの私は、牧師家庭に生まれたこと、「えりや」という自分の名前、小学生の時に買い与えられた聖書、自分に対する両親の熱心なとりなし、それらの全てに感謝できず、受け入れがたい境遇として自分を縛っていました。ですから、教会から離れることは思春期の私にとっては必然でした。
中国に入ると、私服の政府当局者の監視に怯えながら路地裏を抜け、地下教会へと潜入しました。
そこで私が出会った中国人クリスチャンは、信仰のゆえに社会生活が断たれた方、家族に裏切られ当局に引き渡された方、職を失い友人も失い財産までも失った方、十年以上の投獄経験者もいました。また、聖書不足は深刻で、大勢で一冊の教会備え付け聖書を囲みながら説教を聞いているのです。個人所有の聖書などはほとんどなく、手で書き写した聖書を分冊で持っている方もいました。目に飛び込んでくる全てのことが、教会から離れていた十七歳の私にとってはショッキングでした。そして何よりも私の心を突き刺したのは、私の心の奥深くにある罪を見通すかのような中国人クリスチャンの温かな眼差しでした。
買い与えられた聖書を自ら開いて読むことなど一切なく、自分の救いのためにとりなしている両親の背中を笑っていた私の現実の姿を見透かしているかのようでした。それまでの私は、「罪=非道徳的行為」という貧弱な理解しかもっていませんでした。けれど、神を認めず神に背いて生きてきたその自分の生き方が罪の本質であることにそこで初めて気づいたのです。
迫害に耐える中国人クリスチャンから、罪の悔い改め、両親への謝罪、受洗の決心などの手土産をいただいて帰国した十七歳の春の記憶は今も色褪せることがありません。