一粒のたねから 第10回 大人の支援

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

「スーツと煎餅はいつも職場に置いてある」
新聞にこんな書き出しの記事が載っていました。何のことかと思って読んでみると、もう三十年以上も障害者施設で働いてきた方の話でした。たとえば、コンビニで商品を並べ替える障害者がいて、店の方に迷惑がられる。あるいは、幼児の頭をなでようとして痴漢と間違われる。決して悪意からではないがわかってもらえず、冷たい目で見られる。
「だから僕たちがあやまるんです。もう、ずっとずっとあやまっている」と、このベテラン職員は言います。
あやまりに行くのにTシャツとジーパンではまずい。誠意を表すためにはそれなりの格好でないと。また、菓子折もすぐには受け取ってもらえないから、賞味期限が長いものがいい。というわけで、スーツと煎餅を常備しているというのです。
「彼らを守るためなら、なんべんだって土下座します」と、この方は力を込めて言います。それが利用者(障害者)を幸せにするのだ、と。そして、このエピソードを紹介した記者は、こう締めくくっていました。「頭を下げることを恥じてはならない。障害者や家族を守り、相手の怒りを鎮めて理解を促す。プロの福祉職員の『あやまる力』だ」(毎日新聞朝刊二〇一二年十一月二十六日号「余録」より)。

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障害の種類にもよると思いますが、おそらくこれは今日の障害者施設において必ずしも珍しい光景ではないでしょう。こんなとき、熱心な職員であればあるほど、障害者の前面に出て世間の方々との仲介に奔走するのです。それがプロとしての仕事だというわけです。
その背景には、やはり社会の理解不足があります。いくら法律や条例をつくっても、だからと言ってすぐに人々の障害者理解が進むとか、差別がなくなるとかいうものではありません。そのジレンマに立って、日々頑張っている人がいるというのは確かです。ある意味で、こうした日常の小さな出来事が積み重なって、少しずつ少しずつ社会の理解は進むのではないかと考えます。けれども……と、実はもうひとつのことを私は考えてしまいます。果たして、この頑張りはほんとうに実を結ぶのだろうか、と。
というのは、私は人々の障害者理解がどんな内容のものになるのか、ということが気になるからです。
「なるほど、原因が障害や病気によるものだというのはわかりました。だとしても、迷惑は迷惑です。イヤなものはイヤ、困ることは困る。いくらあやまられてもねえ……」。そんな、相手の方の心の声が聞こえてくるのです。それが、心の中の声として黙ったまましまっておかれたとしたら、これはかえって厄介なことにはならないだろうか。施設職員に土下座までされているのに、理解しない自分は悪い。周囲もそういう目で見ている。……ということにならないだろうか。そんな心配です。
脳機能にトラブルがあって、読み書きの学習が困難になるディスクレシアという障害があります。先日テレビで、この障害を抱えながら工務店を経営している方のことが紹介されていました。認知度の低い障害で、この方は今まで怠け者などとさんざん誤解され、いじめられてきたことを涙ながらに語っておられました。
私たちの施設にも、交通事故などで脳の機能に障害を負われた方がおられます。これらは目に見えないだけに、なかなか周囲に理解されにくいのです。社会の責任は、やはり大きいと言わざるを得ません。

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病気や障害に対する理解はとても大事です。
けれども、その方がどんな存在として社会に認められて生きているのかということは、それ以上に大切なことです。プロの職員の「あやまる力」の陰で、もしも障害者本人のあやまる機会が奪われているとしたら……、というのは、心配のしすぎでしょうか。
障害や病気がある。あるいは、人々の理解が十分でなく、差別や偏見をされる。それ自体はどうすることもできないけれど、その方が、人としてどう扱われ、生きようとしているか、というのは別の問題です。それはひとことで言うと「一人前」に生きるということかもしれません。からしだね館では、これを「大人の支援」と表現して、常に意識するようにしています。
「差別禁止」「障害者理解」という大義の陰で、かえって障害者が一人前に扱われるということが阻まれてしまうことがありはしないでしょうか。そして、人としての(あるいは、大人としての)尊厳や誇りが蔑ろにされてしまうことがありはしないでしょうか。