ミルトスの木かげで 第8回 心の願い

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

次女が、高校の卒業祝いと誕生日プレゼントを兼ねて、iPhoneが欲しいと言う。六月が卒業式で、誕生日も六月なのだ。これまでも何度かねだられてきたが、スマートフォンは維持費が高いので、高校生のうちはダメ! と突っぱねてきた。友人にはスマホ使用者も少なくないらしいが、私の考えでは、高校生には贅沢品だと思う。そもそもこの子は、やたらと携帯電話を落として壊す子で、わが家で唯一、彼女の携帯にだけは保険をかけていた。そしてこの一年のうちにすでに二度、保険のお世話になっていて、今では電話会社からその保険も打ち切られている。
しかし、大学生になれば話は別かもしれない。今の時代、スマホを使いこなせることも生活技術の一つになりつつあるようだし、本人も、大学生になったらiPhoneをどんなふうに自分の生活の中で使いたいのか、いろいろ説明してくれた。高校卒業というのは人生の中で大きな節目でもあるし、本人がそんなに願うなら、iPhoneをプレゼントするのも悪くないかもしれない。しばらく話し合った末、了承した。

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親として、子どもが心底願うものを与えるのは喜びである。もちろん、欲しがるものを、何でも与えるというのではない。欲しくても我慢すること、待つこと、本当に必要なものとそうでないもの、本当に欲しいものとただ流行っているから欲しいだけのものなどを見分けること、そういったことを、幼いころから教えていくのは大切だ。
神様も同じだろう。以前の私は、神様は私たちのNeed(必要なもの)は満たしてくださるが、Want(欲しいもの)については分からないと思っていた。そのため、欲しいものがあっても、「必要なものではないから……」とすぐに諦めたり、あるいは、神様に求めるのでなく自分でさっさと入手したりしていたように思う。しかも、本当に欲しいものが自力では入手できないと、それほど欲しかったわけではないもので妥協し、手に入れたいという気持ちを一時的に満足させていた。
しかし聖書は、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37・4)と言い、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15・7)と言う。神様は、私たちがみことばを心に留め、主をおのれの喜びとするときに出てくる〝私たちの心の願い”に関心を持っておられるのだ。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2・13)というのも、そういうことなのかもしれない。他の人も持っているからとか、今持っているものには飽きたからとか、ステータスシンボルになるからなど、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願う」(ヤコブ4・3)ものは退けられるだろうが、必需品以外のものは一切くださらない、というお方ではない。むしろ、私たちに忍耐や真の願いとはどういうものであるかを教えつつ、心の願いを達成させるまでのプロセスに、ともにかかわりたいと思っておられるのだと思う。だから親も、子どもの心に願いが芽生えるとき、なぜそれを願うのかということを、本人と一緒に確認作業ができるといいかもしれない。自分の願いを吟味することは、心の中に何があるのかを知ることにもなるし、将来の展望にもつながる気がする。
つまり、自分の願望は、今の自分の欲求を満たすためだけのものでなく、計画やビジョンを持ち、そこに向かって進むための一歩なのだ、という視点を子どもに与える。さらに、〝神様は、私たちの心の願いを大切に思ってくださる”と知ることは、子どもの神観をも左右するだろう。
そして子ども自身には、自分が心の底から願うものを得るために、自ら努力することも学んでほしい。Aが欲しいなら、Bは諦めなくてはならないかもしれない。アルバイトをしないといけないかもしれない。願うものが楽器の演奏やスポーツにおける技術的なことなら、地道に練習しなければならないかもしれない。こういった努力は、自制を養うことにもつながる。次女とも、そんな話をした。
神様が私たちの心に願望を与えてくださるのは、それが私たちを動かすからである。
したがって、私たちがどんな願望を持つのかは、とても重要だ。願望を抑圧するのでなく、神様のもとで適切に導いていただくことを学びたいし、それを子どもにも教えたい。そうやって、神様とともに、子どもの願いを育てていきたい。いずれ、親が介在することなく、本人と神様の間でこのプロセスを通ることになる日のために―。