ビデオ 試写室◆ ビデオ評 41 『塩狩峠』

塩狩峠
古川第一郎
日本キリスト改革派 南越谷コイノニア教会牧師

今こそ真価がわかる。日本のキリスト教映画の最高傑作DVD化!

 この映画ができてから30年ほど経ちます。その間に、クリスチャンを主人公にしたたくさんの映画ができましたが、いまだに『塩狩峠』以上のものはありません。ビデオが擦り切れるまで見ても、まだ新しい感動が生まれます。

 連結器が外れて暴走し始めた列車を、自分の体を下敷きにして救った一人の鉄道員がいたということを聞いたとき、私は震えました。「彼はクリスチャンでした」という言葉を聞いて、一瞬、「僕はクリスチャンです」と言えなくなったのを覚えています。

 『塩狩峠』を見た人の反応は、肯定派と否定派に分かれます。「感動した」という人と、「話しがきれいすぎる。現実ばなれしている」という人。確かに、これがフィクションだったらそうでしょう。しかし実話であることを知るとき、「きれい」などというのではなくて、どろどろの現実にまみれて生きることを教えられるのです。

 私も、ヤクザが180度変わったというのではなくて、「もともと立派な人がもっと立派になったというだけじゃないか」と思ったこともありました。でも今、もう一度見て、それは大変なまちがいだったことがわかりました。

 「キリストはなぜ十字架につけられたのですか?」「すべての人の罪を背負って…」「では、だれが十字架につけたのですか?」「それは…」「君ですよ!」。誰が見ても非の打ち所のない人格者である信夫に向かって、牧師は言うのです。「君ですよ!」。素直にキリストを信じようとしていた信夫も、この言葉だけは否定します。「これがわからないなら、君はキリストとは何の縁もない」と突き放された信夫は、やがてその意味がわかります。自分にさんざん嫌がらせをした男に、「どうか、僕を赦してくれ」と信夫の方が謝ります。そして洗礼の信仰告白で、その友だちのために自分を棄てて尽くしてきたその親切の中にこそ、恐ろしい罪が潜んでいたことを告白するのです。自分は「よきサマリヤ人」だと思い上がって、実は神の子の位置に自分をおいて友人を見下していた、この傲慢の罪がキリストを十字架につけたんだ、と。

 「ああ、そうか! 悪人が立派な人になったのでもなく、立派な人がもっと立派になったのでもなく、立派な人が罪人になったんだ。すべてはそこから始まったんだ。これが三浦綾子さんが言いたかったことなんだ」。

 そしてもう一度見ると、「誰が十字架につけたのですか?」という問いが私自身に迫ってきます。「君ですよ!」。今一番心が震えるところは、そこなのです。「僕です!」。もう、これは「偉い人」の感動の物語などではないのです。

 人の命が軽くなっている今こそ、この映画は多くを語るのではないでしょうか? また、今回さらによい画質、音質のDVDもできました。『道ありき』の映画化も決まったと聞きます。三浦綾子の作品は時代を救う可能性さえ秘めているようです。