バック・トゥ・ベーシック・シリーズ(4) 学び 学び手との関係を大切に

カップ
横田 義弥
基督聖協団練馬グレースチャペル 副牧師

 10年前、練馬グレースチャペルは小笠原孝主任牧師のもと、「大弟子化命令(大宣教命令)」(マタイ28・19、20)に焦点が向けられ、「キリストの弟子となる」という目的で、それまで教会で行われていた「学び」の内容を大幅に改善修正した。そして、「キリストの弟子となるための学び」「弟子訓練」が新しく始められた。それから「弟子訓練」は、様々な試行錯誤の中で変革を繰り返しながら今日に至っている。

 学び手中心の学び

 私はこの教会に遣わされて間もないころ、信徒の方々と一緒に「弟子訓練」を受けた。その時クラスを導かれた伝道師の先生の言葉が印象に残っている。

 「このクラスではカリキュラムを予定通り終えることを大切にしません。それよりも皆さんがこのクラスを通して、毎回新しい発見をしてもらうことを大切にします」

 練馬グレースチャペル10年の「弟子訓練」に流れるエッセンスの一つは、帰納的学習法である。以前の「学び会」は教え手が一方的に答えを教えていく、教え手中心の演繹的な学習方法であった。しかし、帰納的学習法とは、学び手が自ら答えを発見していく、学び手中心の学習方法である。

 その学び会には自由に質問できる雰囲気があり、質問も教え手がすぐに答えるのでなく、学び手が様々な意見を出す中で答えを発見していく。学び手は聞きっぱなしでなく、聞いた内容に対してディスカッションする。

 クラスに参加された信徒に尋ねてみると、異口同音「楽しかった!」と答えが返ってくる。帰納的学習法によって信徒は、「自分の成長のために牧師が仕えてくれている!」ということを実感して、牧師と信徒の信頼関係が深まるという良い実も結ばれていった。

 大切なのは関係&共同体

 今までに様々な優れたテキストやシステムを用いて「学び」を行ってきた。しかし、教会の「学び」において重要なことは、優れたテキストやシステムよりも「十字架と復活による神の国の価値観」であると教えられる。その人がこの世の価値観から神の国の価値観へ変換されていくとき、その人が学ぶ聖書の知識、聖書に基づくスキルは、いのちとなってその人の内に浸透し、他の人へ流されていくのである。

 神の国の価値観へ変換されていくために欠かせないものが「関係」であり「共同体」である。ディボーションを通しての神との関係、父なる神の愛(十字架と復活)を中心とした共同体の関係、きれいごとを並びたてた関係ではなく、ありのままの本音を神の愛で受け入れあう共同体関係である。その関係が親密であればあるほど、神の国の価値観は、雰囲気となってその共同体一人ひとりの魂に浸透していく。

 「弟子訓練」を修了する信徒に恵みの証をしてもらうと、共同体でのディボーションの分かち合いや祈り合いを通して神を体験し、多くを学んだという証を多くの方がされる。牧師の学びによる恵みよりも、共同体による恵みの方が断然(!?)多い。彼らは、愛の共同体の関係によって神の国の価値観に変革され、神の国の価値観で互いに仕え合い、その雰囲気を喜んでいる。

 なるべくシンプル

 教会で「弟子訓練」始めた当初、多くの信徒が喜びをもって参加した。しかし、新鮮な喜びとはいつまでも続かないのが現実である。ハネムーン期の後は必ず(!?)停滞期が訪れる…。「弟子訓練」の停滞の主な原因は、コースの長さによるものであった。当初、「弟子訓練」は週一回で約三年かかる長大なコースであった。コースが長大=内容も盛り沢山である。

 教え手も学び手も、徐々に負担を感じるようになってきた。また、学ぶ目的も徐々にすり替わってしまった。「キリストの弟子となる」から「コースを終了する」という目的へと。

 明確な目的を持つことは、学びにおいて大切なことである。私たちは本来の目的から異なった目的へすり替わりやすいことを実感させられる。ゆえに、そこに陥らないために大切なことは「シンプル」であると教えられる。

 「弟子訓練」はコースのシンプル化が段階的に行われ、現在は三か月に短縮されている。一回のクラス時間も、日曜礼拝後一時間である。「弟子訓練」の目的は、霊の親となること、つまり、牧会者の心を持って魂を導く信徒牧会者に養成されていくことである。

 クラスをシンプルにすることと平行して、キリストの弟子として実践することを促していく環境を整えていった。また、シンプルなので参加しやすく、学びやすくなり、また学びがマンネリ化しにくくなったのだ。