スポーツミニストリーの挑戦 第2回 小さなきっかけから

蔦田聰毅
インマヌエル堺キリスト教会牧師
スポーツネット関西/大阪・主事

先月号で、中学時代に部活に夢中になって信仰生活を疎かにしてしまい、そのまま荒れた二年間を送っていたことを書きました。高校受験を目前に、悔い改めと再出発の時が与えられて、何とか県立高校に合格しました。
今や中三の受験生を持つ親となり、それがどんなに喜ばしいことだったか身に沁みています。もちろん当時の自分もうれしくて、入学前の春休みから練習に参加するように誘ってくれた先輩たちのことばに従って、当然サッカーを続けるつもりでいました。が、その春休みの練習に出るべく、ルンルン気分で練習着に着替えていた時に、サッカー部員でもあった高校三年生の兄から釘をさされたのです。
「高校生になってからの世の誘惑は、中学時代の比ではない。せっかく悔い改めて再スタートを切ったところだが、同じ中学の先輩たちからの悪い誘いもキッパリと断って、信仰生活を守れる自信があるなら、入部すれば良い。それが断言できないなら、入って来るな」
再出発からまだ間もなく、純真だったのでしょう。そのことばをまじめに考えました。そして、そんな自信は全くないと思い、サッカー部への入部をためらいました。
悩みながら、ふと音楽室の前を歩いていた時、「お、蔦田、ウチの高校に来たのか。ちょっと来いよ」と呼ばれ、中に入った瞬間、影に隠れていた人がバタンと後ろの扉を閉めました。声をかけてきたのは吹奏楽部の部長で、小学生の頃からの知人、扉を閉めたのは初めて会った副部長で、「まあまあ、とりあえずココに名前でも書いて……」と、全く予期せぬ吹奏楽部への入部の瞬間でした。
今の牧師としての立場や、今日までのご奉仕を考えると、高校時代に音楽に触れ親しんだことは幸いでした。しかし当時、経験のある同級生たちがさっさといろいろな楽器を練習しているのに、ひとりで音楽室前の廊下に立ち、眼下のグラウンドで練習しているサッカー部を見ながら、まだ音も出ないトランペットのマウスピースを口に当てて、プス~、プス~、と息を吹いている自分。ふと「俺は何をやっているんだ?」と考えたものでした。サッカー部の顧問だった体育科の先生からは、三年間ずっと嫌みを言われ通しでしたが、「信仰を守るために、サッカーもささげたんだ」と自分に言い聞かせました。   

 *

それから高校、大学、神学校、副牧師を経て、台湾に宣教師として派遣されました。台湾では年に一度、世界各国からの宣教師たちが一堂に会するリトリートがあるのですが、楽しかった思い出の一つが、毎回必ず行われた全北半球(欧州中心)対全南半球(南米中心)のサッカーの試合です。日本は北半球ですが、私は人数の関係で南チームに入り、そこで知り合ったブラジル人の宣教師は元プロサッカー選手。クリスチャン・アスリートの宣教団体にも属しており、Jリーグで活躍したビスマルク選手、カレカ選手、サンパイオ選手たちとも親しい、祈りの友達でした。
ともに祈る中で彼は、自分は教会に仕える者として、彼らはサッカー選手として奉仕すべく、アジア(日本と台湾)に導かれていること、立場は違っても同じスピリット、同じ主から派遣されているのだと、証ししてくれました。さらに彼だけでなく、他の国からの宣教師でもスポーツにかかわっている人々がいて、世界では当然のように「スポーツミニストリー」があることを初めて知ったのです。
帰国後、「じゃあ僕もその分野で!」と意気込んでミニストリーを始めたわけではありません。肝機能障害がわかり、医者からも継続的な運動を勧められて、何かないかと思っていた矢先、地方紙の片隅にフットサル教室の誘いを見つけたのです。毎週月曜日の夜、一回二時間で五百円。これなら自分にもピッタリで、新しい友人もできるだろうと、早速トライしたのが二〇〇一年の一月末でした。
そんな小さなきっかけからですが、その年に「2002FIFAワールドカップ」をうけて〝日韓W杯伝道・ゴール2002〟の準備が始まり、翌年がW杯本番。これを機に協力教会間による「スポーツネット」が発足。その翌年には高石市立の小学校のサッカー部の監督依頼と、毎夏の米国クリスチャン学生サッカーチームの受け入れ、さらにその次の年には地元堺の小学校のクラブ活動と堺少年サッカークラブのコーチ、と次々不思議なつながりで世界が広がってきました。今年は二〇二〇年の東京五輪を見据えて、スポーツミニストリーの新たな基盤作りがされる年です。そんな年に始まったこの連載。小さく見えるきっかけが、大きな畑の入口かもしれないと期待しています。ぜひ全国のスポーツミニストリーで、相互協力できればと思っています。
情報提供をお願いします! Email : publish@wlpm.or.jp「スポーツミニストリー情報」宛