イエスさまに出会った少年の物語 最終回 釘の跡にふれて

橘由喜

〈イエスが十字架に架かって死に、墓に葬られた。それを少年時代に目撃した老人は語り続ける。〉

 そして、あのおどろくべきうわさが流れたのじゃ。わたしは、跳んでエルサレムに向かった。

 町では、兵士があちらこちらに槍を手にして警戒し、いたるところで人々は立ち止まって、いぶかしげな顔をして話しあっていた。

 「なぜ、町にこんなにも人が大勢いるの?」

 人の良さそうなオレンジ売りのおばさんに聞くと、

 「あれまあ、知らないのかい。あの十字架で死んだイエスの死体が墓からなくなったんだよ。体に巻いていた亜麻布だけ残っていたんだってさ。……生き返ったっていうんだよ。見た人もいるらしいよ」

 「やっぱり、うわさはほんとうなの? じゃあ、あの、お弟子さんたちはどこにいるの?」

 「あたしが知っているわけないよ。兵士たちはその弟子たちが死体を盗んだと言ってたけどねえ。あの人たちは捕まるのを恐れて隠れているんじゃないかい」

 それから、わたしはイエス様の弟子を探し回ったが、いくら探しても見つからなかった。疲れきって暗い路地にうずくまっていると、またしてもあのサマリアの女が前に立っていたのじゃ。

 「まあ、あんた。またエルサレムにきたのかい。わたしもだよ。こんなときに、サマリヤでじっとしていらんないよ。それにしても、ちょうどよかった。実は、イエス様に会った女たちがいるんだよ! 香油を塗るために三日目にお墓に行ったんだって。そのとき復活したイエス様にお会いしたって言うんだよ」

 「えっ? お弟子さんじゃなくて女の人に?」

 「その女はマグダラのマリアって言われているんだけどね。イエス様に罪を赦されて生まれ変わった人よ。聞いたことない?」

 「知らない……で、イエス様はいまどこに」

 「お弟子さんのところじゃないの。彼女が知らせたら、お弟子さんたちビックリして跳んできたって言ってたもの」

 「ぼくも会いたい! どうしても会いたい!」

 「じゃあ、マグダラのマリアを訪ねましょ。きっと会えるから。さあ行きましょう」

 わたしたちは子どものようにはしゃぎながら、すでに暗くなった街をマグダラのマリアの家に向かって走りだしたのじゃ。


 月の明かりをたよりに、深い木立を抜け、小高い丘を駆け下りたときじゃった。

 「平安があなたがたにあるように」

 なんというやさしい響きだろう。どこから聞こえてきたのだろう。天からか、はるかな山並みからか、全身を包むようなあたたかなお声じゃった。

 わたしたちは同時に振り向いた。さやさやとゆれるオリーブの木の下に、白い衣をゆったりとなびかせ、両手を広げた人影があった。

 イエス様じゃった。

 「ああ、イエス様!」

 まるで宙を舞うように、わたしは走りよった。

 「イエス様、イエス様、本当に復活されたのですね、ああイエス様!」

 わたしは崩れるようにイエス様の足元にひれ伏した。その衣は闇の中で白く輝いていた。あまりの感激に地面につっぷしたままだったわたしは、思いきって顔をあげてイエス様を見た。ああ、そのお顔はやさしく微笑んでいた。

 「わが子よ」

 イエス様はわたしをそう呼ばれた。ああ、何とうれしかったことか。

 「最後まで信じる者は幸いです。あなたがたはわたしを見ない前から信じてくれました。わたしはすべての人たちを罪から救うために十字架にかかったのです。そして死から三日目に復活しました。あなたがたはこれらのことを信じますか」

 「ああ。イエス様。信じます。」

 サマリヤの女はひざでにじり寄り、イエス様の白い衣のすそに触れて泣いていた。


 まさに、わたしはそこにまぎれもない復活した救い主を見、小さくなってイエス様の足元にひれ伏していた。

 もうふれることもできないお方なのだ……

 そんなわたしの気持ちを見抜いたのか、イエス様はおっしゃった。

 「わたしの体にふれてごらん。あなたと同じ肉体を持っています」

 わたしはおそるおそる差し伸べられたイエス様の手にそっとふれた。あたたかな手のひらだった。が、次の瞬間、全身が固まった。その手のひらには、まぎれもなくあの十字架に打ち付けられたときの太い釘の跡があったからだ。


 おそれで震えるわたしの手をしっかり握り返して、イエス様は言われた。

 「これから四十日したら、わたしは天の父のもとに帰ります。そして、あなたがたが見たままの姿で、再び帰ってきます。このことを信じますか?」

 「はい、主よ。信じます。あなたこそ復活された救い主です」

 「わたしは弟子たちのところへ行かねばなりません。子どもたちよ、すこやかでいなさい」

 そう言うとな、イエス様は、白い衣をなびかせてゆっくりと丘の方をめざして歩んでいかれたのじゃ。

 わたしと彼女は、そのお姿が丘のかなたに消えてもなお、黙っていつまでもいつまでそこに立ちすくんでおった。

 ガリラヤ湖の夕焼けが、まわりの山々をあたたかいオレンジ色に染めあげ、やさしく静かに包んでいった。それはそれはとびきりの夕焼じゃったわ。

 さあ、これでわたしの話はおわりじゃ。よう聞いてくださった。

 とうに日も暮れた。あれあれ、背中のお子が眠ってしまわれたか。そっと連れて帰ってくだされ。気をつけてな。イエス様は、いつもご一緒じゃで。明日もあさってもいつまでもな……。

(完)