わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第10回 イエスはあほや

奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表

 「ホームレス状態になって一番苦しかったのは、食べられないことでも眠れないことでもありませんでした。自分は存在しているのに自分の前を大勢の人が通り過ぎて行った、そのことです」。パトロールの夜、そんな人々を訪ねる。「こんばんは。どうされてますか」。食べ物ならば何とか捜し出せる(ただそれは残飯ではあるが……)。でも彼らにとって「このひとこと」は容易には見つからない。皆「向こう側を」(ルカ一〇章三一節)通り過ぎて行った。だから訪ねること自体に意味がある。

ホームレス―それは隣人不在の状態。ならば路上だけの問題ではない。「いじめが原因で中学三年の夏ごろより荒れ始め、まるっきり違う人格のようになり、家庭内暴力になって、何か違う方向へ行く危険性もあり不安でした。親が気づいても病院の受診がない、診療したことがないからなどと断られる。医師、児童相談所、教育センター、教育相談所など、いろいろ回りましたが、動いてくださる先生は一人もいらっしゃらない。入院して二十日あまり。まじめでおりこうさんを装っているとのこと。大きな不安に包まれています。入院当日『おぼえていろよ、たたではおかないからな』という言葉が忘れられません。心の闇がもっと広がるような気もします」。これは二〇〇〇年五月に起こった佐賀バスジャック事件で逮捕された当時十七歳の少年の母がある大学教授に宛てた手紙だ(朝日新聞に掲載)。母は息子の心の闇を心配しつつ、さらに深いこの世の闇に絶望している。「動いてくださる先生は一人もいらっしゃらない」。この世は「関わらない理由」を準備している。手紙を読んだ日の衝撃を忘れない。教会はあの日何をしていのか、私はどこにいたのか。

なぜ私たちは関わらないのか。所詮「自己責任」であるからか。病気にしても、失業にしても、現代の困窮の原因が個人にのみ起因するものでないことは皆が気づいている。にもかかわらず私たちは「自己責任論」を振りかざす。それは「助けないための理屈」に過ぎない。そんなもっともらしい「理屈」を掲げる私たちに対してイエスは「あなたも行って隣人になりなさい」と仰る。「赤の他人の事柄に口を出せ」と。赤の他人に関わることを私たちは忌避する。関わると時間も自由も犠牲になる。お金もいるし第一疲れる。「そんなことで思いわずらうのはごめんだ」と思っているのだ。だから、見えないふりをして前を通り過ぎていく。それは実に「賢いやり方」だ。

「祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。』」(マルコ一五章三一節)。イエス・キリストの十字架の場面。十字架の主は嘲弄される。嘲弄は「あざけりなぶること、ばかにすること」。ただ皮肉なことにイエスを十字架に架けた者たちでさえイエスが「他人を救った」ことを認めている。しかし、だからこそ彼らはイエスを嘲弄するのだ。「他人のことに必死になって自分は後回し。イエスはアホや」と。

それがイエスであった。そして私たちは、この十字架のイエスを「わが神、わが救い」と告白した。あの日の「嘲弄」が、「関わらない賢さ」が今日も私たちを支配する。そして路上の叫びを、あの母の嘆きを無視し続ける。そんな私たちの信仰をイエスの十字架が問う。「賢く生き過ぎていないか」。「キリスト者としてちゃんと嘲弄されているか」。

赤の他人と共に生きる。理由などない。それがイエス・キリストであり、その方に従う。ただそれだけだ。神にとって赤の他人であった私の十字架をイエスが負われた。それが唯一の理由だ。キリストに従い生きたボンヘッファーはこう述べている。「イエスがすべての人間の罪をご自身に負い給うたゆえに、すべての責任ある行動者は、他者の罪を負う者となる。罪の責任から逃れようとする者は、人間存在の究極の現実から離れ、しかし、また同時に、罪なきイエス・キリストが罪ある人間の罪を負い給うという救いの秘儀を離れ、この出来事の上に示される神の義認とは、全く何の関わりを持たないことになる」(『現代キリスト教倫理』新教出版社)。他者(赤の他人)の罪を負わないことは、十字架のイエス・キリストにおいて示された「人間の存在の究極の現実」「救いの秘儀」から遠ざかることになる。「所詮赤の他人じゃないか。あなたに対する責任などない。関係ない。自業自得だろう。……他人事に関わるなんてアホやないか」。「アホや」と嘲弄された主に従う私たちは、そんな風に祝福されて生きていく。それでいいのだ。