もういちど、この夏から聖書再入門! ■聖書に魅了されて三百六十六日を生きる

稲垣緋紗子
日本福音キリスト教会連合岩井キリスト教会国内宣教師、お茶の水聖書学院教師

ふとしたことから、毎日必ず聖書を読むという人たちの存在を知った。
私がまだ求道中の頃のことである。聖日の礼拝後、聖書通読の手引きについて信仰の先輩同士が語り合っていた。その語り合いは、ふたことみことのようだったが、何か大事な情報交換のようであった。その人たちの口に上っていたのは、聖書を友とする人たちのための定期刊行物名であることを後になって知った。
そうか聖書は毎日読むべき本なのか、しかもあの人たちは喜んで読んでいるようだ、と理解した。それから何十年も経つのだが、その時の記憶は今も昨日のことのようによみがえる。

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聖書に魅了されて三百六十六日を生きることについては、聖書の持つ魅力の面から語られることが多いように思う。では、毎日聖書を読むこと自体の魅力はどういうものだろうか。何が魅力なのだろう。
第一に、「今日を生きる力が得られる」という魅力である。日々いのちを、また息を与えられて生きているということ自体、感謝してもしきれるものではない。だが同時に、生きるということに休みはないのも事実である。
良いことずくめの日があるかと思う一方で、そうとはばかり言えない日というものがないわけではない。そちらのほうが多いということであるかもしれない。そこで、今日はどうも大変な日だから生きるのを一日休もう、と思っても、それはできない相談である。
人は、この日一日を与えられている意義が何であるのかを、しかと見据えて生きていく。そのために鍵になるものは、私たちの「歩みと……伏すのを見守り」、私たちの行く「道をことごとく知っておられ」る方のことばに耳を傾けるとき、そのお方から与えられる(詩篇139・3参照)。
第二に、「信仰者、礼拝者として成長していく」という魅力である。聖書を毎日読むことを通して身につくのは、主の教会を、家庭を含めて社会を、地域を含めて世界を、地球を含めて被造物界を、そして自分自身を、主が見ているような見方で見る姿勢である。それは、主の心を心とするようになっていくことでもある。
たとえば、主イエスが私たちのためにささげられた次のような祈りについての理解も深まっていくはずである。「わたしは彼らのためにお願いします。……彼らはあなたのものだからです。……あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるため……また、彼らもわたしたちにおるようになるためです」(ヨハネ17・9、21参照)。このような箇所を聖書全体に位置づけて理解する力は、日々聖書に耳を傾ける中でついていく。第三に、「自分と同じことをしている仲間が今日もいる」という魅力である。信仰者とは、神のことばを慕い求める者たちである。聖書に日々耳を傾ける者の心は、おのずと仲間の存在に向けられていく。そのことで、これからも読み続けようという励ましを受ける。その仲間に私も加えられることになるきっかけを、あの日作ってくれた先輩たちがいることをあらためてありがたいと思う。

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