つい人に話したくなる 聖書考古学 第9回 収穫の〝春〟!?

杉本智俊
慶應義塾大学文学部教授、新生キリスト教会連合(宗)町田クリスチャン・センター牧師(http:// www.mccjapan.org/)

Q当時はどのような職業がありましたか?
二千年前―、当時のユダヤ人がどのような生活をしていたのかは、住んでいる土地柄によって異なります。
「あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして」(ルカの福音書17・7)と語っているように、イエス・キリストが育ったガリラヤ地方は、農家や羊飼いが多かったようです。この地方は、全体として家族や親族とのつながりの強い田舎で、中心都市のセフォリス(現ツィッポリ)やガリラヤ湖の北にあるカペナウムなどは大きな町ですが、イエスの地元ナザレは小さな村でした。

Q耕作では、どのような農作物が作られたのですか?
まずは、主食となる大麦や小麦です。大麦が一般的ですが、次第に小麦も作られるようになりました。北海道などでも作られていますが、日本では春に種をまき、秋に収穫しますね。一方、ユダヤでは秋に種を蒔き、春に収穫します。「主は……初めの雨と後の雨とを降らせてくださる」(ヨエル2・23)と聖書にあります。この「初めの雨」とは秋に降る雨、「後の雨」とは春に降る雨のことです。秋に雨が降って、地面がやわらかくなったところに鋤をかけて種を蒔き、春に雨が降ると一気に植物が成長し、収穫を迎えるのです。
つまり聖書は、「後の雨」が降るという表現で、収穫の時がやって来ることを表わしているのです。イエスの弟子たちに聖霊がくだったできごとは、ユダヤ教の収穫祭であるペンテコステ(五旬節)に起こりました。収穫の春は、たましいにとっても喜びの季節となったのです。
収穫された麦は、束をくぎのついた板に打ちつけてもみを外します。衝撃で軽いもみがらが外れ、それを自然の風で吹き飛ばすと、重い小麦の実だけが落下して残ります。風の力を利用するので、「打ち場」は小高い場所にあることが多かったようです。テルアビブのハアレツ博物館では、今でも復元された打ち場を見ることができます。
ガリラヤ地方のナザレの村の南に位置するイズレエル平野は穀倉地帯として有名です。「イズレエル」とは、「神が種を蒔く」という意味です。ガリラヤ湖周辺は山なので、果物やオリーブを作ることが多かったようですが、大麦、小麦の畑も作られました。特にガリラヤ湖の西側の地域は、広くはありませんが、良質の穀物がとれたことで知られています。
収穫された小麦の実は、石臼でつぶして製粉します。石臼には、大小二通りあり、大型のものはパン屋などで用いられました。小型のものは、直径二十~三十センチのたいらな玄武岩をふたつ重ねたもので、日本の古来のものと似ています。大抵は一家に一台あり、家でパンを食べるとき、その日の分だけひきました。
つい百年ほど前まで、よく見られた光景です。

Q果物やオリーブも作られたのですね。
夏は乾季で雨が降らず、土地が干上がってしまうので、水がなくても育つ柑橘類のくだものやいちじく、ぶどうやオリーブなどが作られました。今でもイスラエルといえば、グレープフルーツやスウィーティーが有名です。
預言者のアモスも、「一かごの夏のくだもの」(アモス書8・1)の幻を見たと、語っています。
ぶどう酒も聖書によく出てきます。ぶどう酒は、大きな岩を四角く掘った「酒ぶね」に収穫したぶどうを入れて、足で実を踏みつぶし、取れたぶどうの汁を土器のかめに移して作りました。夏は乾季なので、そういった屋外作業がしやすいのです。
この「酒ぶねを踏む」という作業は、真っ赤なぶどうの汁が足にはね返るため、血しぶきをあびる戦争のイメージがあります。聖書でも、次のように使われています。
「……御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった」(黙示録14・19~20)
オリーブも夏に育ち、秋に収穫する実です。木の下にござを敷いて枝をたたき、落ちてきた実を集め、つぶして網にいれ、石で押してオリーブオイルをとるのです。


ちなみに聖書には、「金持ち」と「しもべ」のたとえ話も多く出てきますが、多くの人々は小作人として働いていました。旧約聖書の律法では、土地はそれぞれに割り当てられ、借金をしてはいけないということになっています。しかし、実際は一部の大金持ちと、土地を借りる大多数の小作人という社会構造が成り立っていたようです。
雇い主は、エルサレムなどの大都市に住み、現地での作業を小作人たちに任せることもありました。
「ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした」(マタイの福音書21・33)
あるいは、その地方の大地主として中心的存在になっている場合もありました。その場合は、立派な石造りの大地主の家の周りに、「麦の打ち場」「オリーブしぼり」「ぶどう酒しぼり」などの農作業施設が造られ、小作人たちはひとつの共同体として生活したのです。そこでは、農作物が盗まれないようにする「見張りの塔」や、さらには「お墓」まであったようです。

 

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