つい人に話したくなる 聖書考古学 第2回 しゃがんで出産!?

杉本智俊
慶應義塾大学文学部教授、新生キリスト教会連合(宗)町田クリスチャン・センター牧師(http:// www.mccjapan.org/)

Qマリヤとエリサベツは、かなり年が離れていますが、交流があったのでしょうか。

イエスの母となるマリヤは、天使に聖霊によって男の子を産むと告げられたとき、「親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です」(ルカ1・36)と知らされます。そして、エリサベツに会いに行きます。「マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした」(同1・39、40)
当時の社会は、何世代、何家族もがともに暮らす大家族制でした。現代の中東でも、親戚づきあいは強く、アラブ人たちは週に一、二回親族で集い一緒に食事をします。日本で言えば〝本家に集まる”という感じでしょうか。
私も何度か招かれたことがありますが、二、三十人が一堂に会します。女性たちは総出で大人数の食事を作りますから、自然と女性は女性、男性は男性で結束していきます。これだけ家族のつながりが深いと、男性側の母親が気に入らなければ嫁になれないのもわかりますね。
エリサベツは、「もう年をとっていた」(同1・7)「あの年になって」(同1・36)と書かれているように、十代だと考えられるマリヤとはだいぶ年齢差があったようですが、親類ということで親しい関係が築かれていたのでしょう。

Q 当時の女性にとって、出産は重要だったようですね。

エリサベツは、「五か月の間引きこもって、こう言った。『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました』」(同1・24、25)とあります。当時、女性にとって「子どもを産む」ことは何よりも重要な役目でした。現代では、子どもを産まなくてもアイデンティティーをもつことができますが、当時は〝出産”が、今とはくらべものにならないほど重要視されていたのです。ですから聖書には、ほかにも、子どもができずに苦しむ女性の姿が描かれています。
たとえば、エルカナの妻ハンナはそのことで気をもみ、子どものいる(もうひとりの妻)ペニンナは、彼女をいらだたせます。ハンナは、「泣いて、食事をしようともしなかった」(サムエル記第一1・7)とあります。また、アブラハムの妻サラも「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」(創世記16・2)と言って、どうにか子どもをもうけようとしています。
かつての日本でも、「正室」「側室」など、別の女性に跡継ぎを産ませようとすることは行われていましたね。

Q 出産はどのように行われたのですか?

出産は一家の女性たちの一大事ですから、総出で行います。男性は立ち合うことができませんし、そのような発想もありません。当時のユダヤ社会では、男性と女性がはっきり分かれていたのです。窮屈なこともあったでしょうが、それは、それぞれの権利を守ることにもつながっています。
「出産の部屋」というものがあり、そこに女性たちが集まり、産婆が呼ばれます。部屋の地面には浅い穴があって、前方に足を乗せる台があります。ひもをつかむ場合もあったかもしれませんが、集まった女性たちが、妊婦の身体をしっかりと支えます。妊婦はその台に足をのせ、しゃがみこんで子どもを産むのです。浅い穴のところで、産婆が産まれてきた赤ん坊をとりあげるのですが、すでに出産を経験した女性たちが中心となり手伝います。そして、まだ若い女の子たちは、いつか自分が体験することとして、見守るのです。ぶじに赤ちゃんが生まれたら、へその緒を切って、布をまいて寝かせます。二千年以上前のことですから、出産にはかなりの危険が伴ったことでしょう。死んでしまう場合も多くありました。ですから古代では、〝豊穣多産の女神”が祭られることが多かったのです。日本にも〝安産祈願”のお守りや、生誕一か月を感謝して神社を尋ねる〝お宮参り”などがありますね。いのちを産む、育むというのは、それほど危険が伴うことなのです。
イエス・キリストが誕生したクリスマスのできごとについては、ユダヤのベツレヘムの町で、「……マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカの福音書2・6、7)と書かれています。
マリヤは幼いころから出産のようすを見てきたかもしれませんが、ヨセフはまったく勝手がわからなかったでしょう。手伝ってくれる女性たちはいたのでしょうか。家族の女性たちの手伝いもなく、旅先で子どもを産んだマリヤは、どれほど不安だったことでしょう。