たましいの事件記者フィリップ・ヤンシ―
その探究の軌跡 第3回 『だれも書かなかったイエス』

山下章子(やました・しょうこ)
東京に生まれる。
学習院大学文学部哲学科卒業。
カリフォルニア大学サンタバーバラ校留学。
現地にて受洗、フィリップ・ヤンシーの著作に出会う。
英会話学校講師を経て、翻訳者に

前回ご紹介した『神に失望したとき』に続いてお薦めしたいのは、『だれも書かなかったイエス』です。タイトルから想像されるように、真実のイエス像を探って書かれた一冊です。十数年ぶりにページをめくってみたところ、ぐいぐいと引き込まれて一気に読み通してしまいました。一九九六年度全米キリスト教優秀図書ゴールドメダリオンに輝いたことも肯ける、優れた内容を持つ魅力的な作品です。あいにく現在は品切れで入手するには中古書を当たるか図書館に行くしかないのですが、訳者としても一押しの作品なのであえて紹介させていただきます。
一九四九年生まれの著者は、五〇年代に子ども時代を、六〇年代から七〇年代にかけて思春期・青年期を送りました。ファンダメンタリズム(非常に保守的な福音主義)の教会で育ち、バイブル・カレッジや福音主義大学の大学院等で学びましたが、教会や大学で教えられたことに釈然としない思いを抱えてもいました。青年期の著者にとってイエスは遠い存在であり、現実の生活には起こりもしない奇跡や山上の説教の不愉快さなど、理解しがたい問題が幾つも立ちはだかっていました。ジャーナリストとして社会に出て、本の執筆もはじめたとき、そのテーマの多くが自身の中にあった疑問の探究となりました。
『だれも書かなかったイエス』に書かれているのは、著者がイエスを再発見してゆく過程です。隠れていて、沈黙を守っているかに見える神が人間に与えた最大の贈り物がイエスであるとするなら、イエスを正しくとらえることは信仰者にとって何より大切なことに違いありません。イエスはどのような方だったのか。著者は、分かりやすく書かれているとは言い難く、理解できるものならやってみろと挑んでさえいるような聖書の中に答えを探していきます。

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さて、どんな人も時代の影響を免れることはできません。イエスのイメージについても同様で、私たちはお決まりのイメージを知らず知らずに受け入れている可能性があります。著者はクリスマスカードや映画に代表される、世間に流布しているイエス像の問い直しから始めますが、イエスのイメージはさまざまで、時代によっても描く人の立場によっても異なっていることに気がつきます。複数の神学校図書館でイエスについて調べてみるもそのイメージは茫洋とするばかり、結局、聖書そのものに当たることでイエス像は次第に焦点を結んでゆきます。

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そのイメージは、一筋縄ではいかない意外性にあふれた人物、というものでした。著者は神学や教会史を研究しながらイエスの生涯を辿り、イエスはどのような方で、どのような使命をもって地上に来られたかを探ります。見過ごされがちなクリスマスの事実、時代背景、ユダヤのルーツなども明らかにしながら、荒野の対決や奇跡、十字架上の死や復活、昇天の意味するものを追究します。しかし、あくまでもジャーナリストとしての視線を外しません。イエスについてゆく群衆の端っこで取材している者と自らを位置づけ、イエスの生涯の結末をまだ知らない者として、イエスの言葉も死や復活も、当時の人々の気持ちになって受け止めようとします。読者は他のラビたちとイエスの違い、当時の支配者ローマ人たちが信じていた宗教とイエスの教えの違いを知らされながら、自分ならそのときイエスの言葉にどう反応しただろうと臨場感の中で考えさせられます。
青年期に著者を悩ませた問題について書かれた章、中でも山上の説教を扱った二つの章は特に読み応えがあります。納得し難かった「心の貧しい人は幸いです」に始まる山上の教えを、三つの段階を踏んで理解するに至った経緯、一世紀のユダヤ人にこの教えがどれほど衝撃的であったかを、湾岸戦争で国連軍指揮官の発したメッセージやアメリカンドリームと対比させて考察するくだり、山上の説教後半のいかにも実現不可能な厳しい要求について、トマス・アクィナス、マルティン・ルター、十九世紀米国の天啓的史観、再洗礼派などの見解を吟味した上で、最終的にトルストイとドストエフスキーによって最も肝心なことに気づかされるくだりは圧巻です。本書は、著者が成長過程で身に着けた律法主義や人種差別主義、狭い了見といった汚れを徐々にこそげ取り、問う者を問い返すイエスの逆照射を浴びながら、血の通ったイエスを取り戻そうと格闘した記録でもあります。イエスは誰とも同じ人間としてこの世に来られた。けれど、何かが決定的に違っていた。その何かを追究した刺激的かつまっとうな一冊です。