これって何が論点?! 第16回 「聖絶」と戦争は違うの?

星出卓也
日本長老教会
西武柳沢キリスト教会牧師。
日本福音同盟(JEA)社会委員会委員、日本キリスト教協議会(NCC)靖国
神社問題委員会委員。

今日、民族同士の紛争は絶えず、「民族浄化」のような悲惨な戦争も起こっています。聖書にもイスラエル民族を優位とし、他民族を「聖絶」する内容がある、と批判する人もいます。しかし、民族同士が争うことと聖書の「聖絶」は全く別物で、同列に置くことのできない教えです。
申命記7章1、2節で、イスラエルがカナンの地の七つの異邦の民を聖絶するとあるのは、イスラエルとカナンの民の民族同士の争いについて語っているのではなく、罪の目盛を満たしてしまったカナンの民を、神が御自身の聖さのゆえに滅ぼすことを示しているものです。罪ある人間が、無限に聖い神の臨在の御前に立つならば、直ちに神の栄光に打たれて滅ぼされ、つまり、「聖絶」されます。聖絶は、罪ある人類に対する神の無限の聖さの表れであり、民族同士の争いを語っているものではありません。

Qでも、神は罪を赦す方、愛の神ではないのですか?

神が罪を赦されるとは、罪を容認することではありません。だれでも罪ある者が神の御前に近づくなら、神御自身の無限に聖なるご性質のゆえに、立ちどころに聖絶されます。これを「ひな型」として表していたのが旧約時代の幕屋や神殿の中心にある聖所です。聖所のさらに奥にある至聖所には、年に一度、贖いの血を携えた大祭司だけが入ることを許されました(へブル9・7参照)。イスラエルの民が、この会見の天幕を通して、神との交わりに入れられるのは、いけにえの小羊によって、聖なる神の裁きが完全に行われることにかかっています。本来聖絶されるべき者の身代わりに、贖いの小羊がなることによって、イスラエルの民は神に受け入れられるものとなるのです。
これは、神の呪いを罪人の身代わりに完全に受けた、キリストの十字架によって完全に成就します。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3・16)と聖書が語っていることに注目しましょう。
ここには、本来、すべての人が滅びる存在だったという前提があります。そして、その身代わりとなるほどの犠牲を、父なる神が支払われるほどに、世を愛されたことを語っているものです。同時に「聖絶」は、キリストがもう一度来られる再臨の時に、全世界的に起こることでしょう。そのとき、キリストの全き贖いを受けた者だけが、その滅びを過ぎ越されます。

Q聖書のイスラエルの民に民族優越思想があるのでは?

新約時代にも「われわれの先祖はアブラハムだ」(マタイ3・9)という民族優越思想をはらんだ選民思想が見られます。しかしこれは、神がアブラハムとその子孫をお選びになった、神の選びの御心に反する考え方です。神はアブラハムを選ばれたとき、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12・3)と語られました。神の関心は、イスラエルの民だけにあるのではなく、すべての民族にあります。やがてすべての民を贖う、救いの完成の時まで、救い主への信仰を保存し、継承するために彼らを選んだのです。実に、全民族に福音を運ぶために、十二使徒たちをはじめとするユダヤ人たちが用いられます。
つまり、イスラエルの民が選ばれたのは、民族の優位や何かの資質による選びではなく、すべての民族に救いの契約を運ぶ奉仕のための選びです。そして、ユダヤ人から異邦人にキリストが宣べ伝えられるに従い、民族の隔たりは消え、キリストを信じるすべての民が、すべての民族に福音を取り次ぐ祭司としての奉仕を担うようになります。
主イエスがカナンの女性に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」(マタイ15・24)と語ったのも、やがてペンテコステの後に、主より教えられたユダヤ人たちによってすべての民族に福音が運ばれてゆくようになるまでの定められた時のことを語っているのであって、民族差別によるものではありません。

Q民族主義にクリスチャンはどう向き合ったらよい?

クリスチャンは、それぞれの地域に遣わされながらも、天に国籍を持つ者としてこの地上に生きています。よって、民族主義を乗り越えるべき存在であり、「国益」という発想を克服できるものではないでしょうか。
使徒の働き15章のエルサレム会議の決定も、「ユダヤ人の教会と異邦人の教会」という二つの教会に分かれることはなく、一つのキリストを信じる教会であることを確認するものとなりました。第二次世界大戦時のドイツにおいても、ドイツ民族の優位性を強調するアーリア条項の適用に対して、神の言葉に立つ教会のいくつかが、抵抗し、教会は民族を超えて一つの主の民であることを告白しました。
まさに、民族問題、領土問題にさらされつつある日本においても、自分自身のようにあなたの隣人を愛する、という律法の命令を、国同士、民族同士にも適用する者として主の民は召されているのではないでしょうか。

ピーター・C・クレーギー著
『聖書と戦争・旧約聖書における戦争の問題』(すぐ書房、2001年)
玉川上水キリスト教会のHPから清水武夫牧師の説教
「聖なるものであること(補遺)・聖絶と聖別」 http://www.hat.hi-ho.ne.jp/ists1970/messages.html