「二人」を生きる関係 最終回 愛するために


近藤由美

 「結婚」が、実際に目にすることがほとんどない稀なもので、イメージしにくいというのならわかるのですが、多くの既婚男女に囲まれているにもかかわらず、神の制定された結婚の内実を把握できないままに(多くは誤解したままに)、結婚がスタートしてしまうという場合が多いのではないでしょうか。

 そして、気がつくと、自分がエントリーしたはずの「結婚」という競技は架空のもので、思い描いていたものとはまるで違う競技がいきなり始まってしまうというわけです。ちょうど個人競技の短距離走と二人三脚が、トラックで、速さを競う点では同じでありながら、まるで異質な競技であるのに似ています。

 禁止事項が強調される否定的、律法主義的な結婚についての教えを聞くことがあったとしても、それは断片的な情報にすぎません。それが導き出された背景にある結婚の祝福の意味を、結婚前に学んでおくことが肝要なのです。甘い身勝手な理想を思い描くのでなく、現実は厳しいと聖書信仰と切り離した結婚を求めるのでもない、神が与えようとされた結婚を、信仰をもって待ち望み求めていくことは、相手探し以上に大切なことだと私は考えます。見当違い、ボタンの掛け違いの結婚をして、せっかくの神の祝福を自ら放棄しないために。

愛することへの召し

 クリスチャンの本当の交わりは、地上にいながらにして天国を味わうことができます。しかし世俗の世界と同じ、あるいはそれ以上の人間の醜さに直面し、深い傷を負う悲しみを経験することもあります。キリストの模範が何の効力もないかのような無力感を味わい、祈り終えた直後に激しくののしり合い、和解しないままにクリスチャン同士がけんか別れをするといったことさえあるのが私たちの現実です。

 それを避けるために大人の知恵を用い、傷つかない程度の付き合い方をして、自己防衛することも可能です。つまり愛する関係を途中で降りることもできるのです。しかし、結婚相手は、生涯、一人の人を愛していくと決意し、神と人との前にそのことを誓い、「二人」の歩みを始めるのです。「病める日」にも、逆境の日にも、共なる歩みを投げ出さず、その人を神が備え与えてくださった生涯の伴侶であることを信じて、愛する意思を持ち続ける決意をするということなのです。一人の異性を愛するようにと召され、その召しに従うことが結婚であると言えるのかもしれません。

愛の中に存在する自由

 愛は、相手の自由を奪ったり、束縛したりするものでは決してありません。愛していることの証明を相手に求め、心と魂の自由、体の自由を奪う形で相手を自分に束縛して愛を確認しているなら、それは見当違いもはなはだしいと言えます。一方的で極めてわがままな要求を「愛」という言葉をふりかざしながら強要されているにもかかわらず、それに応えることが愛だと勘違いしている場合も多くなっているのではないかと危惧します(愛しているなら、肉体関係を許すべきではないかと思っている女性も)。

 相手の心が自由で活き活きしていない状況での二人の関係は、水を含んだボールがちっとも弾まないように、つまらないものです。自発性の奪われた愛は、もはや愛ではありません。それは支配と従属の力関係なのです。

 「愛」が存在する所には、本当の自由があります。温かさがあり、節度があり、相手を思いやる心遣いにあふれています。奪うのではなく、与え、護ることを自然に考えます。そこには自分が自分でいてよいという安心感があり、心の覆いをはずして、心がのびのびできるのです。自分だけでなく、自分以上に相手もその人自身になることを切望します。そこにこそ二人にとっての住処である「二人」の関係を建て上げる土台があるのです。

関係の中で生きる

 目には見えない存在であるお方に、自分が熟知されたうえで赦され、受け入れられ、愛され、守られ、人格的な交わりを許される生き方に招き入れられたことは、驚きの一語に尽きます。それでも信仰初期には自分勝手なお願い事をするのがせいぜいで、神との交わりの世界の豊かさは知りませんでした。結婚生活も様々な側面がありますが、根幹は一人の人との人格的な交わりであり、それは神との交わりに相似しています。しかも、三位一体の神の内に豊かな交わりがあるように、二人の間に神がいつも共におられ、三者の中で交わりが潤滑に進んでいくのです。

最後に

 傷つく恐れに縛られて、出会いの一歩を出し渋るのは、損です。失恋の痛みの経験をしてこそ、神が備えてくださる人に出会えた時に、「骨からの骨、肉からの肉」という共感を互いに持つことができるのだと思います。健闘を祈ります!