自分の生と死を看取る生き方 第5回 もしもし、それは君の死ですよ!

近藤裕
サイコセラピスト、教育学博士(臨床心理)、元・百合丘キリスト教会牧師、現ライフマネジメント研究所長。西南学院大学卒。米国に留学(1957~59,1968~71年)。在米生活17年。

 著書に「自分の死に備える」(春秋社)、「スピリチュアル・ケアの生き方」(地湧社)などがあり、著書は90冊を超える。

 「……やがて、自分だけの死に方も、自分だけの生き方と同じようにこの世の中から跡を断つだろう、何もかもがレディメードになってゆく。いい人間は自分の病気が持ってくる死をただ死んでゆくだけでちっとも怪しまない」 詩人リルケは生きることと死ぬことにおいて、独自性や主体性を失った人間の悲劇を嘆いていた言葉を残しています。

「もしもし、それは君の死ですよ!」と言われても何の反応も示さない、と皮肉っています。
 現代の私たちもリルケが言っているように、まさに 「できあいの生活」を送る誘惑に多く出会います。それは物質に限らないのです。物の考え方に至るまで、「既製品」を着用することで満足しています。自分のスタイルを持たず、独自性を失った生き方、他人まかせの人生を生き、そして他人まかせの死に臨む。そんな人生を生き、そして死に臨むときに「もしもし、それが君の死ですよ!」と呼びかけられ、「それが自分の死だ」と気がつく。

「自分の死」を死ぬためには、人生のドラマの最期を意識的に演じなければならないのです。それもドラマの主役を演じるということです。「患者は自分が自分固有の死を演じる主役なのだという自覚をもって能動的な姿勢を貫かなければならない。(中略)脇役は、患者がスポットライトを浴びて生と死の舞台から、その人のやり方で堂々と退場できるように配慮しなければならない」と『第三の人生』の著者であるアルフォンス・デーケン氏(上智大学文学部名誉教授)は訴えています。 こういった人生のドラマの最期のステージで主役を演じるには人生のドラマの全体において主役を演じなければならないのです。人生の最期の一コマだけを主役になろうとしても手遅れとなるでしょう。まさに、人間は「生きてきたように死ぬ」ほかないからです。人生のドラマを脇役や端役で満足してきた者が、人生最期のステージにおいて主役を演じることを求めても無理な相談です。「自分の死」を意識的に死ぬこと、それは結局、人生の全体の日々を意識的に生きることに尽きるのです。つまり、「死ぬことを学ぶことと、生きることを学ぶことは一つである」のであって、「自分の死」を死ぬことを学ぶということは、結局は、自分の生を創造的に生きることを学ぶということに連なっています。

 重症の心臓病から回復する過程において、死と対峙した体験を経た心理学者のアブラム・マズローは「情熱的に愛する人間に生まれ変わった」と述べています。「死に直面し、そして死の執行を猶予されたことによって、あらゆるものがこの上なく貴く、神々しく、美しく見えるようになり、私はすべてを愛したい、すべてを抱擁したい。(中略)決して死ぬことがないとわかっていたら、果たして情熱的に愛することができるだろうか? エクスタシーなどというものがありうるだろうか?」

「自分の死」を死ぬことを心に決めた者には、その日、その瞬間から新しい人生が始まるのです。そして、人生の旅路のあちらこちらで新しい出会いのエクスタシーを体験できるのではないでしょうか?

 聖書の中にある「死」に関する数多くの教えの中で、一人の富める農夫のたとえ話には、死を忘れた生き方の傾向の強い現代人に対する警告が示されています。

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして自分のたましいこう言おう。「たましいよ。(中略)さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、だれのものになるのか。』」(ルカの福音書一二章一六節~二〇節) この富める農夫が聞いた神の言葉どおり、その夜のうちに農夫が死んでしまったかどうかはあきらかにされていません。そこに、実は、恩寵の世界が示されていると私は思います。