「原理主義」と「福音主義」 第1回 ファンダメンタリズムの原点は?(前半)

宇田 進
東京基督教大学名誉教授 元ウェストミンスター神学校客員教授

 最近、日本のキリスト教界において、また一般のマスコミにおいても、「原理主義」ということが「今の」話題となっており、いろいろと論議されている。「キリスト教原理主義」とか、「イスラム教原理主義」は、最近よく目にし耳にする。

 さらに、最近の文書(例・W・フート『原理主義―確かさへの逃避』邦訳2002)では、「ユダヤ教原理主義」(例・宗教シオニストの過激派)をはじめ、「カトリック原理主義」(例・法王ヨハネ・パウロ二世が後押ししている「オプス・デイ」と呼ばれている復古主義運動や第一バチカン公会議の教規と教令を重視する「デンツィンガー神学」と呼ばれている運動)や「ギリシャ正教原理主義」のような「原理主義」も取りあげられている。

 今、オウム裁判が進行中だが、宗教学者の島田裕己氏は、『宗教の時代とはなんだったのか』(1997)の中で、オウムのテロリズムを仏教の「原理主義」と位置付けている。

 以上のように、今日、「原理主義」という≪ラベル≫が実に広範囲に使われている事実に、むしろ驚きを感じる!

 このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。

 その理由の一つは、日本のキリスト教界(メイン・ライン─主流派─、福音派とも)が、まず基礎的なこととして、アメリカ・キリスト教史における現象としての「ファンダメンタリズム」と「エバンジェリカル」(福音派―日本では前者とほとんど一緒くたに使われている)の≪実態≫を歴史的、神学的、文化・社会的の三面からはたしてきちっと理解しているかどうかという疑念である。

 半世紀にわたって「メインライン」と「福音派」の両世界を遍歴してきた一人として、どうも、一部の神学エリート層によって作られた≪オピニオン≫と≪イメージ≫が先行・支配する形をとってきたのではないか、という印象を強く抱かせられている。この点についての真相はいかなるものであろうか?

 一口に「キリスト教原理主義」と言っても実際には大テーマである。英・米では「プロ」「コン」両サイドからの膨大な量にのぼる文書・資料が出されているが、日本においては残念ながら非常に僅少かつ部分的なものにとどまったままである! 

 はじめに、「原理主義」という語について、その歴史的由来を含めごく基礎的なことの確認からはじめたいと思う。

 日本語の「原理主義」は、英語の「ファンダメンタリズム」(Fundamentalism)に対する≪最近≫の訳語である。それまでは、長い間「根本主義」が広く使われてきた。「根本主義」の最も古い使用例を、日本プロテスタントの黎明期の指導者植村正久の「宣言若しくは信条」(1924)の中に見いだすのである。

 より最近のカトリック系の著者・ハロラン芙美子の『アメリカ精神の源』(1991)も同様である。ストレートに「ファンダメンタリズム」を用いるケースもある。激烈な酷評で知られるジェームズ・バー『ファンダメンタリズム―その聖書解釈と教理』(邦訳1982)がその例である。

 次に「ファンダメンタリズム」と言う呼称のそもそもの起源であるが、それはアメリカ教会史の中に見いだされる。

 1880年から1930年の時期に、アメリカ教会の中に一つの新しい動きが次第に顕著になってきた。それはドイツ神学主導によるもので、中身は≪近代精神≫(modernity)へ≪順応≫する形で展開されてきた≪新しいタイプのキリスト教バージョン≫の広がりであった。

 これは「自由主義(リベラリズム)」と「近代主義(モダニズム)」(例S・マシューズ『近代主義の信仰』1924)と呼ばれた。

 こうした新しい流れに直面した教会は、19世紀半ばまで支配的であった≪歴史的キリスト教≫(Historic Christianity─≪福音主義キリスト教≫とも呼ばれてきた)の保持と宣揚の必要を感じ、結束して行動を展開するという状況が発生したのである。

 まず、1910年から15年にかけて、歴史的キリスト教の解説と弁証を目的としてThe Fundamentalsと呼ばれる12巻の文書(英国のジェームズ・オアや米国のウォーフィールドといった代表的神学者たちも執筆)が刊行された。これは三百万セット印刷された。

 また、1910年には歴史的キリスト教の≪近代的な再解釈≫に直面したアメリカ合衆国長老教会(一般に≪北長老≫とも呼ばれる)は、大会において次の五教義をキリスト教信仰にとって≪ファンダメンタル≫(根本的)なものと確認した。

  1. キリスト教の≪規範原理≫としての聖書の霊感と無謬性、
  2. キリストの神性と密着している処女降誕、
  3. 福音の核心である十字架におけるキリストの身代わりの贖罪、
  4. キリストの体の復活(キリストの人格とわざは≪実質原理≫と呼ばれてきた)、
  5. 奇跡の真実性、
の五点がそれである。