福音に捕らえられ、福音に生きる

西小野 健福島県 郡山聖書バプテスト教会 牧師

ちっちゃな頃から悪ガキで15で悪童と呼ばれた私は親や周りの人々に散々迷惑をかけた挙句、17歳のとき、九州から単身で上京しました。「俺は何でもできる! 芸能界で成功して多くの人を見返してやる!!」と浅はかな野心を抱いていたのです。しかし、する事なす事、何一つ上手くいかず貯金も尽き、ゴミ箱を漁るようになり、助けを求め新聞販売所に転がり込み働き始めました。仕事をやっと覚えた最初の給料日にバイクで事故をし入院。それから6か月後また事故をし脳挫傷で10時間以上の大手術。その後、鬱になり自分が生きている意味がわからなくなり自殺願望を持つほど落ち込みました。そんなどん底状態にいたある日の夜中、近所を散歩し教会の看板を見つけました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)とのことばが私の胸に突き刺さり、その後、自分で聖書を買い、読み始め「この神がいるなら生きていける」と思うようになりました。教会に行き、初めてイエス・キリストの福音を聞き約1年後、私は恵みによって罪を悔い改め、キリストの福音を信じて救われました。それから約20年経った今、私は東北の福島県にある小さな教会で牧師として歩んでいます。なんという恵みでしょうか。こんな私を救ってくれた「救いをもたらす神の力である福音」をすべての人々に伝えたい。
しかし、なかなか伝わらない、上手くいかない、成果も見えない。むしろ自分自身の弱さ、失敗、罪深さを思い知らされる日々。知らず知らずのうちに小さな田舎の緑あふれる教会の中で「私は牧師だ!みことばを語るんだ!」「牧師とはこうでなければならない」という間違った理想像に引きこもり、大切な作業を軽んじる「机上の人」になっていました。
そんなある日、嫌々教会前の草むしりをしていたとき、ふと神学生時代にある牧師から言われたことばを思い出したのです。「草むしりをめんどくさがるようなら伝道者にならないほうがいい」。パーンと頭を打たれたようにそのとき初めてそのことばの意味がわかったのでした。草むしりをしながら悔い改め、それから、私は新しい草刈機を購入し、人が変わったように草刈りなどの作業を喜んでするようになりました。それから地域の人々とも良い関係を築くことができるようになりました。「伝道ってこういうことなんだなあ」。イエス様のことばも響いてきました。「仕える者になりなさい」。今では地域の小学校の社会科見学のコースに私たちの小さな教会も加えていただくことができ、とてもうれしく思っています。思い込みやこだわりの外に出たときにさまざまなチャンネルが開かれる、可能性が開かれる。そして、福音伝道、福音の種まきはこういう「小さな一歩一歩」から始まるのだと教えられています。他の人や教会と比べる必要はない。神は人が見るようには見ていない。伝道というものは神にある私という存在が置かれた地に一粒の種となってただ落ちるとき、そこから「溢れていくもの」なのかなあと今も学んでいます。これからも、無条件の愛で私を愛し救ってくださったキリストにあって一歩一歩、福音を生き、証しする者として歩ませていただきたいと願っています。