神と共に生きることが

川口竜太郎(高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)
代表スタッフ)

 戦前、関東学院の第一期生であった祖父はキリスト教教育を受けていました。祖父は私たち家族の近所に住んでおり、私と弟は祖父の家に行くたびに、「寝る前には神様に感謝の祈りをしなさい」と言われていました。
 幼い頃の最初の記憶は、暗い天井を見つめ、一日の感謝をささげた記憶です。天使や天国が見えたわけではありませんが、神の存在と与えられた命に生かされている確信を、幼いながらに感じました。一日の終わりに感謝の祈りをささげることは習慣になり、今に至ります。この祈り、小さな信仰が、神の目に留まっていたのではないかと思います。
 小学3年になり、母が近所の友人に誘われ、教会に行くようになりました。日曜学校は、学校のようで学校ではなく、教える内容は神様についてでした。CSクラスではお菓子をもらったり、CSソングを歌ったりと、すべてが新しい経験で、皆が自分を受け入れてくれる姿勢に戸惑いました。というのは、私は学校がとても苦手で、1年生の頃から学校に行くのが本当に嫌だったのです。理由は、知らない人に会いたくなかったこと。誰にも会わなくても、絵を描いたりプラモデルを作ったりして、楽しい毎日を過ごしていたからです。
 
 教会に集まる人たちのうそのない愛を知れば知るほど、私は反抗的になったのを覚えています。その頃は、両親が毎日のようにけんかをしていたので、平安がなかったせいかもしれません。その後、母は信仰をもつようになるわけですが、私は教会に足を踏み入れた時から、祖父に言われてきた「神」、毎晩感謝をささげてきた方が、教会で話されている神と結びつきました。しかし、私は信仰をもっても、神を受け入れる素直な心と裏腹に、徹底的に人を嫌い、自分を嫌うようになっていったのです。今から考えると、すべてを嫌い抜くことで、それ以上自分が傷つかないようにしていたのだと思います。それが自分をさらに孤立させ、孤独にさせていました。
 20歳になる頃、祖父が亡くなりました。とても元気だったので、心臓発作という突然の死に、ことばで言い表せないほどの衝撃を受けました。その出来事を通して、私は改めて、日々神に感謝をささげ、今を懸命に生きることの大切さを教えられたのです。

 信仰といったらよいか、信念といったらよいかわかりませんが、そこに生きるとき、試練や逆境は神の働きを演出する道具にすぎません。
 希望は失望に終わることはありません。失望にとらわれるなら、希望を見失います。
 神は本当におられる。生きておられる。そう感じない日はありません。これは、人間が自然と感じるものだと思います。多くの人が、みこころを知らず、本当の神を知りません。神の栄光は、神が現してくださるのですから、多くの人が神と出会うために、肩肘張らずに毎晩ささげる感謝とともに、神と共に生きようと思います。