伝えなければ!!

小野淳子日本イエス・キリスト教団高松新生教会牧師

 コロナ禍の昨年、私たちの福祉施設で「ガウンプロジェクト」という活動を行いました。これは、ポリ袋を使って簡易ガウンを作り、それを病院や介護施設に届けるというものです。地域の方にも協力を呼びかけたところ、たくさんのカンパを頂きました。
 1967年9月8日、この日が、私の人生最良の時となりました。20歳の私が、「キリストに出会った時」でした。岡山県都窪郡庄村(現在、倉敷市)というまさにド田舎に生まれ、2歳9か月の時、両親が離婚。幼稚園を卒園する頃、父は再婚し、継母と共に別の地へ移りました。私は父方、と言っても、その父にとっても養父母であった祖父母との3人暮らしとなりました。小学5年生、10歳の時、祖父の計らいで、岡山市内で薬剤師をしていた実母と再会。しかし、私には初対面の感覚でした。父母には内緒で、月1回会っては、おこずかいをもらったり、欲しいものを買ってもらったりしていましたが、生意気にも、「心の話ができない」と失望しました。
 「本当の愛とは?」と考え始め、近くで亡くなる人がいると、「人はどこから来て、何のために生きて、死ぬとどうなるの? どこへ行くの?」との疑問が湧き、中高生、大学生になると、その「真理」への渇きはさらに増大していきました。
 大学1回生の寒い冬の12月11日、42歳の実母ががんで亡くなりました。20歳の誕生日を迎えた頃、「真理」への渇きは頂点に達し、ある夜、家のすぐそばにある木の電信柱にもたれかかって、「誰か真理を知っている人がいたら教えてほしい!」と、声にならない声で、絶叫しました。星だけが瞬く暗闇の中で、神はその叫びを聴いていてくださったのでした。油絵科の先輩で、四国今治出身の兄弟に導かれ、1967年2月、スタンレー・ジョーンズ博士の講演会に行きました。その帰路、自転車に乗った瞬間、ふと自分の心をのぞき、祖父母へのわがままや汚れに満ちた心に、内心、「誰も愛してはくれないだろう、自分だってこんな私を愛せない」と思った時、「いや、大きなお方がおられて、20年間私を愛し、今もこのままの私を愛していてくださるんだ、私も愛されているんだ、愛されているんだ…」と示されました。私は涙を拭うこともせず、星空の下、家に向かい、「教会へ行って、この大きなお方を知ろう」と、母教会となる、神の国キリスト教会の礼拝に出席するようになったのです。
 毎週の礼拝で認罪の連続。これまでの罪に汚れた20年間を追いやって、清い新しい生き方をしたいと、受洗を決心。その準備日が、1967年9月8日でした。ヨハネの手紙第一、1章9節により徹底した涙の悔い改めの中で、罪の塊の自分を見、さらには、茨の冠を頭に十字架にかかっておられるイエス様の姿が目に浮かびました。 
 この私の罪のために! 罪の赦しの喜びと新たな涙とともに、「これでいつ死んでもいい、このお方に従えば正しく生きられる、人は誰もその生涯のどこかでこのキリストと出会わなければ滅びるんだ。伝えなければ!!」と、魂に刻まれたのです。この時が心の内での「私の第一歩」でした。大学の友人を猛烈に教会に誘い、卒業後即献身、それまで考えたこともなかった伝道者として召されて、フルタイムで、今も福音を伝え続けさせていただいています。あの日の「迫り」が原点です。