「やっと自由になったね」

三重県で新生児撮影を専門にフォトグラファーをしています。生まれて間もない赤ちゃんを写真に残す仕事です。今年で9年目となり、これまでに700名を超える赤ちゃんを撮影しました。こんなにも長く続くとは……と驚きつつ、主の業をほめたたえます。
私はクリスチャンホームに生まれ、神学校で学びました。当時は「神様から与えられたタラント(賜物)を無駄にしない生き方を」という願いを強く持っていました。ですが、今振り返って思うのは、当時の私は、自分のタラントを生かそうとしていたのに、自分自身のことをよく知らなかったようです。自分の持ち物がわからないままに生きることは手応えがなく、熱心に仕える先輩方を見ては「もっと頑張らなきゃ」といつも自分を追い立てていました。自分を裁きながら走り続けた結果、24歳の秋、仕事に行けなくなってしまいました。
今、あの頃の自分に会えるなら、こんなことばをかける気がします。「やっと自由になったね」と。何もしなくていいという意味ではありません。誰かのようになろうとしなくていい、という自由です。神様は私を、別の誰かではなく、私として生かそうとしておられたのです。
長い休みを経て、多くの方々に支えられながら、私は写真の仕事へと導かれていきました。そして、その先で何もできない赤ちゃんたちと出会いました。稼ぐこともできない。役に立つこともできない。むしろ、手がかかり、助けがなければ生きていくことさえもできない。それでも家族は、その存在を喜び、夜泣きで眠れない夜を過ごしながら抱きしめます。関係のない私でさえも、その赤ちゃんに温かな感情が自然と湧いてくるのです。
「赤ちゃんは愛の象徴です」なんて言うと途端に浅く聞こえてしまう気がして抵抗がありますが、私は赤ちゃんを通して福音を教わっているのかもしれません。
「ただ生きているだけで、愛されている」
その姿は、何もできなくなった頃の私自身にも重なります。大人になってから、自分の情けない姿を見ることはきつかったです。しかし、イエス様はそんな時も変わらずに、わたしの友でした。
今も私の中に自分を追い立てる声はありますが、ずいぶんその存在が小さくなりました。それよりも、何に心が動くのか、何ができると感じて、何ができないと感じるのか。そんなふうに、自分の内側にある声に耳を傾けられるようになりました。24歳の秋、何もできなくなった私にまかれた小さな種があります。小さな種、それは、ありのままの私と友でいてくれるイエス様を信じる心です。その種が育つには、まずは休息が必要でした。そして、私の中にある小さな声を聞いて、認めて、受け止めてくれる人たちの存在もあり、長い年月をかけてゆっくりと育まれてきたように思います。
私の願いは、イエス様の優しいまなざしを忘れないでいることです。自分の力を手放し、自分の願う方法を超えて働かれる神様の業はなんとユニークなのでしょうか。まさかの失業、まさかの日曜出勤の仕事、まさか、こんなにも小さな赤ちゃんたちが私の福音理解を深めてくれたとは。イエス様は、今日も私の内に住み、生きて自由に働かれます。この福音に軸足を置いて、今日も身の回りの人たちに遣わされます。