信仰は能力にも年齢にもよらず

井上 義実荻窪栄光教会牧師

昨年のクリスマスに、教会学校の子どもたちから4名の小学生が洗礼を受けました。小学校2年生から5年生の子どもたちで、クリスチャンホームのお子さんたちです。神様がなされた恵みの業を、教会員一同、神様に心から感謝をささげました。
私たちの教会ではコロナ禍になって教会学校の働きが対面の形ではなかなか再開することができず、オンラインでの礼拝、分級が続けられてきました。昨年10月からようやく部分再開を果たすことができ、オンラインを主としながら、次のステップに向けて進んでいます。
コロナ禍で教会では来会者の健康面、安全面に気を配っており、慎重な対応を行っています。もちろん、考え方や状況はそれぞれの教会で違いますので、対応は異なっていて当然の話です。しかし、子どもたちへのアプローチもなかなかできない中で、特に魂への切なる思いがありました。クリスマスを前にして、子どもたちのほうから洗礼を受けたいという願いを聞いて、神様が働いてくださっていたことに胸が熱くなる思いがしました。
私は今回、子どもたちから受洗という話を聞いても早いとは思いませんでした。私自身もクリスチャンホームの出身です。受洗は中学校を卒業した春休みのイースターでしたので小学生ではありませんでした。しかし、すぐに思い出したのは小学校3年生の時の出来事でした。私が初めて自分の新旧約聖書を手にしたのが小学校3年生の時です。その時に「これが聖書だ。よし全部を読もう」と決心しました。難しいことばだらけ、カタカナの人名・地名・用語が多々あるのはわかっていました。ただ漢字にはすべて読みがなが振ってあるので、意味は分らなくとも字面だけは追えるということは知っていました。聖書通読は両親から言われたのでも、教会学校で勧められたのでもありません。周りの大人が何よりも大事だと言っているのだから、自分でその理由を探ろうと思ったのです。聖書の全ページ数を365で割ると5ページ弱になるので、1日5ページ読めば1年間で読み通せると思い、創世記1章1節から読み始めました。時々くじけそうになりながら、1年3、4か月をかけてヨハネ黙示録の最終節にたどり着きました。
その時に得た聖書各巻や個々のストーリーの印象や感想は、いまだに部分的には覚えています。過言を許していただくなら、後日に聖書通読を重ね、牧師となって聖書研究を続けていく最も基礎になったと私は思っています。10歳の子どもですから表面を少しなぞっただけにすぎません。しかし、その時にもった素朴な印象や感想は、後になってあの時もそう思った、あの時疑問だったことはこのような意味だったのかと納得することも多々ありました。
教会学校で子どもたちは子どもたちの目でイエス様を見つめています。子どもたちは子どもたちの理解でみことばを受け止めています。子どもたちは子どもたちの思いで神様に従おうとしています。信仰は人間がもっている年齢や能力などの基準で測れるものではありません。子どもたちの内にあるすばらしいものを、子どもたちと共に喜び合える私たちでありましょう。