高校時代のクリスマスで人生初の「説教」

中台 孝雄hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)代表役員 / 日本長老教会・希望キリスト教会牧師

 私が神様を信じたのは、アメリカの高校に留学中のことでした。知り合いも少なく、一人で家にいる長い時間、本好きの私は、ホストファミリーの家にあった雑誌などを読みまくりました。熱心なクリスチャンの家には、あちこちにキリスト教の雑誌があり、本や文章から「クリスチャンってこんなふうに考えるのか」「神様って本当にいるのか」と考えさせられました。
 高校1年か2年の時だったでしょうか。クリスマスを前にした頃、隣のクラスから「クラスのクリスマス会を視聴覚教室でやるんだけど、クリスマスの話をしてくれない?」と突然頼まれました。
 学校で、「聖書研究会」に関わっていたからだったかもしれません。「まじめに聖書から話をして、皆にからかわれると嫌だな。思い切り浮いてしまうかもしれないし」とは思ったものの、学校の友人たちに福音を伝えなければ、との気負った使命感を抱いていたこともあって意を決して引き受けました。
 それなりの準備と覚悟をして、当日のクリスマス会に臨み、5分程度の話をしました。予想外に皆きちんと聞いてくれました。からかわれるようなことはまったくありませんでした。私としては、人生最初の「説教」ということになります。
 案ずるより産むが易しで、普段は辛辣な連中も、ふさわしいタイミングであればそれなりに真面目に受け止めてくれるのだな、と自分なりに一つの教訓を得ることができました。
 やがて長じて牧師になり、各家庭の冠婚葬祭に司式者として関わることも多くなりましたが、結婚式や葬儀での司式や説教の後、「初めてキリスト教の式に参列しましたが、良いものですね」と感想を伝えてくださる家族や親族の方々によくお会いします。特に「葬」に関しては、結婚式以上にキリスト教式の葬儀に触れることは滅多にないようで、参列した多くの方が「キリスト教の式には慰めがあり、希望がありますね」との感慨を抱いてくださるようです。
 中には披露宴の祝辞で「先ほどの式では神父様(だいたい「神父」になる)がすばらしいお話をしてくださいましたが、結婚というのは現実には…」と切り出す上司の方もおられて、心の底では「何言ってやんでえ。こっちだって式という厳粛な場でなければ、言ってしまいたいことはあるんだ!」という気持ちになることもありますが、おおむね温かい気持ちで受け止めてくださることが多く、時と場所、機会が適切であれば福音をストレートに語っても素直に受け止められる、と高校時代の経験を思い出します。
 また別の時には、あまりにも気負いすぎている時に、「そこまで用心深くならなくても。私たちだってキリスト教に対するリスペクトや、クリスチャンの生き方を大切にしようという思いはあるんですよ」と諭されてしまったこともあります。激しい憎しみや敵対感情、そして実際の攻撃の中で命がけで証しをしなければならない時代、社会もありますが、穏やかな対応が基本になっていて、そこを少し丁寧に育てれば突破口が開ける、という社会もあります。その突破口に触れることまではいいけれどもその先に進まない、というのが日本での伝道の困難さですが、まずはきっかけになることは確かです。
 キリスト教にほとんど接触したことのない方々の日常の営みの中にそっと入りこむ。適切なタイミングがあればそうできるのだ、と理解しつつ、そのタイミングを逃さないように、最初の一歩を確実に、と祈りつつ心がける日々です。