いつも語りかけてくれるイエス様

加藤潤子(絵本作家 イラストレーター )


 私はクリスチャンホームに育ち、聖書のお話を聞き、教会へ行くことは日常でした。

 高校3年の頃から自分自身の内側のどうしようもない醜さに苦しみ、人と接するのも怖くなり、不眠症にも悩まされるようになりました。

 社会人2年目の頃、会社からの帰り道、自転車を押して坂道を上っている途中、ふと「神様は、私をあっという間に交通事故で天に召すこともできるのに、今、私はここにいる。神様は、私がここにいてもいいと思っているからなんだ…」。天地を造られた神様が、夜空いっぱいから私を優しく見つめてくださっているのを感じました。生きることを私が決めなくていい。神様と一緒なら、どんなに惨めでも、またゼロ歳から始められる。

 それまで神様ははるか遠いところにいました。でもこの時、私が生きていることが、この世での神様と私の一対一のつながりとなりました。とても大きな安心に包まれました。

 翌日のこと、聖書を開きイザヤ書53章を読んでいる時、初めてイエス様が私の罪のために死んでくださったことがわかりました。人々はイエス様を十字架につけました。幼い頃から親しんでいたイエス様を殺すことなど、私には考えられませんでした。でもイザヤ書53章の中で人々がイエス様に敵対しているのを見た時、この群衆の中に自分の姿を見ました。群衆に紛れている私の罪です。イエス様をまったく尊ぶことなく、何も知らないままに、神の子を十字架にかけるよう大声で叫ぶ者こそ、私自身の姿でした。イエス様はひとりで黙々と十字架に向かい、十字架の苦しみを負っておられる姿が描かれていました。神様とイエス様の量り知れない愛と、救いのみわざの成就でした。

 私が罪人としてみことばを受け取ることができた時、即座に主イエス様は罪人の私を救い、生かしてくださいました。心のすべてをさらけ出して聖書を読むことができるようになりました。もう良い子になって読まなくてもいい。ことばにならない心のうめきにさえ、みことばが語ってくれます。聖書のすべてのみことばが私への語りかけとなりました。それは十字架の道に見たように、赦してくださる神様の恵みを知ったからです。聖書の中の善と悪は、私が思っていたような善悪を分けるものではなく、表と裏のように感じています。

 神様の厳しい戒めのことばには、必ず赦しがあるからです。神様はすぐ後ろにいて即座に赦したいと思ってくださっています。そのように、いつもいつも、私を愛し、戒め、力づけ、導いてくださっています。

 私は絵本を描いています。思いがけず参加した絵本ワークショップがきっかけでした。「絵本」は大切な何かを伝えます。私が伝えたいことは聖書のメッセージです。自分が知っている聖書のお話を描くというより、私が知りたいと思う聖書のメッセージを、絵本づくりを通して神様から受け取っていく感じです。私にとって絵本づくりはイエス様からのプレゼントであり、みんなとの喜びの分かち合いです。