主が与えてくれたレッスン
「土曜日はあなたがやりたいこと何をやってもいいから、子ども伝道をしてください。一年後のことは何も気にしなくていいから」
神学生として一年間派遣された教会の牧師に最初言われたことです。事実上、ここから私の次世代伝道は始まりました。すぐに思いついたのは公園伝道。紙芝居を持って出かけますが、見知らぬ人のところには誰も集まってきません。何か手を打たなければならないと感じ、紙芝居ではなくバルーンアートの教則本とバルーンをもって公園に向かいました。伝道としては、聖書のお話の紙芝居をすることのほうが100点なのでしょうが、一度その考え方を捨てたのです。点数をつけるとすると下がるかもしれませんが、すぐにみことばを伝えることではなく、関係性を築くことから始めたのです。今までやったこともないバルーンアートを、公園のベンチに座り教則本を見ながら作り始めました。そこに子どもたちがやってきて「何作ってるの?」と。私が「バルーンアートを練習してるんだ。でも難しくて…」と答えると、一緒に作ってくれました。もちろん、自分が教会から来ている者であることはすぐに伝えます。そのようにして公園で毎週30人ほどの子どもたちと遊ぶようになりました。そして、教会で月一回のイベントを開き、公園の子たちを招待しました。そこから日曜のCSにつなげることには課題がありましたが、この一年を通して、私は「伝道はかくあるべき」という概念を一度捨ててみることを学びました。もちろん、みことばを届けることが至上命題です。ただ最初から100点を狙ってしまう私にとっては主が与えてくれたレッスンでした。
今の教会に赴任して捨てた概念は、チラシ配りの範囲です。それまでは、近隣の小学校2校のみにチラシを配っていましたが、来られるかどうかは子どもたちが決めることと考え方を変えました。私たちのチラシ配りの候補としては小学校だけでも10校あります。キッズイベントの時には、その中から7、8校を選んで配ります。これにより、近隣のみに配っていた時の5倍の出席者が与えられました。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」(ピリピ2:6)、「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています」(Ⅰコリント9:22、23)
人数が増えたことが成功だと言っているのではありません。それはあくまで、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」とあるように「今まで」の概念をゼロに戻し、「福音宣教を目的として、あらゆることをしてみた」結果の一つであるとご理解いただければ幸いです。
福音宣教がなかなか進まない困難な時代です。しかしそれはまた、神がお許しになった何らかのメッセージなのかもしれません。ピリピ2:6にあるように、今までのあり方を捨てられないとは考えず、Ⅰコリント9:23のように「とにかくやってみる」。そのようなシンプルさが求められているのかもしれません。
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」(ピリピ2:5)