祈られて、主の業を見る

安藤 理恵子玉川聖学院 学院長

「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:13)
聖書を初めて手にしたのは中学1年生の時。教会に初めて行ったのは高校1年生の時。私にとってキリストとの出会いは、そのまま思春期の自立の歩みでもありました。大学卒業後は学生伝道の働きに従事して20年、その後ミッションスクールで10年。多くの人々の前で福音を語り、主の御業をたくさん見てきました。しかし、そんな私にとって、素の自分の信仰を問われるのはいつも家族の救いのために祈ることにおいてでした。
家族には事あるたびにキリスト教書籍やグッズをプレゼントしてきましたが、信仰に関心をもってもらえることは少なく、何とも言えない敗北感を感じ続けたものです。私は家族の救いを願っていましたが、それを期待して祈り続ける信仰をもっていませんでした。家族が救われるのは無理だと感じ、結果として家族のための祈りは断続的になりました。しかし聖書を読むと、自分の冷酷さと矛盾を示されて、ぞっとするのです。最も身近で大切な人たちのたましいを簡単にあきらめられる私は、いのちを何だと思っているのか。たくさんの他人に向かって宣教活動ができたところで、こういう私の信仰は欺瞞なのではないか。神と人との前に真実のものだと言えるのか。
家族の救いのためにも、自分の欺瞞との決別のためにも、ある時から、自分にできないことを教会に助けてもらうことにしました。自分が受洗した実家近くの教会の牧師夫妻や兄姉に、毎週の教会の祈祷会に出席している兄姉に、私の働きを昔から支えてくれてきた兄姉に、家族の救いのために祈ってもらうことにしたのです。兄姉に祈られることによって、私自身が祈り続けることができました。それは神を新たに知るプロセスでもありました。主は私を憐れんでくださるだけでなく、家族一人一人のことも私が愛する以上に愛して、祝福しようとしておられるのだと、神の愛への信頼を学び直してきたように思います。
アルツハイマーを発症した父が、私に真顔で尋ねてきたのは1年前のことです。「どうしたらよいのかわからないから教えてください」。全く脈絡のない父の問いに、今まで何度も伝えてきたものの、まともに取り合ってもらえなかったことを改めて言ってみました。「だからお父さん、イエス様という神様を信じたら、罪をゆるして救ってくださるんだよ」。すると父は「そうか、やっぱりそうだったんだな。ありがたいことだな」と神妙な面持ちで手をすり合わせるのです。不思議な救いの現場を目の前にしながら、私は感動というよりも冷静に納得していました。「ああ、これが神の業なのだ。神は人の思いや知恵とは関係なく、ご自分の意思と憐れみでたましいを捕らえていくのだ。その御業に、人と人のことばを用いてくださるのだ」
父はその夏に自宅で受洗し、今は肺炎で入院中です。教会に祈られ続けながら、私は主に期待しているのです。今度は主は父を用いて、母や兄にも救いを広げようとしておられるのではないでしょうか。そして宣教の主が与えてくださる順序正しい出来事を通して、主に従い続ける者でありたいと願っています。