自ら労苦したのでないものを刈り入れる

船橋 誠日本メノナイトブレザレン教団石橋キリスト教会牧師

 教会に行ったり、洗礼を受けていなくても、「私はクリスチャンである」と自認する人の数を入れると日本のクリスチャン人口は1%どころではなく、優に5%を超えていると聞いたことがあります。そのような人々を「潜在的求道者」あるいは「隠れたクリスチャン」と呼べば良いでしょうか。実は、私自身もかつてそういうかたちでの求道者でした。
 今から約40年前、中学生だった私はスイスの思想家カール・ヒルティが書いた『眠られぬ夜のために』という本を読みました。全体が365日に分けて寸言が記されたもので、不安な気持ちになったときにページをめくると不思議と慰めや励ましを受ける本で、いつの間にか私の枕頭の書になっていきました。クリスチャンとしての視点で記されたそれらのことばの深い洞察と力強さに惹かれて、やがて聖書そのものに興味を持ち、十代後半からは聖書をよく読むようになりました。
 特に、マタイの福音書にある山上の説教で語られた「心の貧しい者は幸いです」以降の教えを読んだ時の衝撃は大きなものでした。これは人間が考え出して語り得ることばではないと感じたのです。もし神というお方が存在するとしたら、このことばを語られたイエスというお方に違いないとそう思いました。それ以降、私は神社仏閣に行く機会があっても祭壇で拝むことはなくなりました。私の神は、聖書に記された神であり、イエスであると思っていたからです。
 こうして私の中で魂の探求は始まっていたのですが、周囲にクリスチャンが一人もいなかったので、教会に行くこともありませんでした。しかし、二十代になって間もなくして、仕事の疲れや人間関係で行き詰まりを感じていた私は自宅に配布されたトラクトを手に、ある日思い切って教会を訪ねたのです。
 それは日曜日の午後だったので礼拝はすでに終わり、会堂では子どもたちが遊んでいたり、大人はくつろいでいるような様子でした。「礼拝をささげたい」と玄関で伝えた私の訪問に少し驚いた教会の方が急いで牧師を呼びに行き、そこで私は牧師との面談を通して、初めて人の口を通して語られる聖書の話を聞くことができました。それから3ヶ月して洗礼を受けました。
 こうした経験を通して与えられている私のうちにある確信は、私たち教会の知らぬところで、神は今もさまざまなかたちで人々の心の中に語りかけられ、ご自身を証しされ、イエスの福音に心開くように働きかけているということです。イエスは弟子たちに言われました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。…わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました」(ヨハネ4:35、38)。福音を伝える私の第一歩よりもその前に、神はすでにみわざをなしておられ、刈り入れるばかりにしてくださっているのです。