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『キリスト教神学』第4巻 さわり読み
『キリスト教神学』第4巻
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『キリスト教神学』第4巻 目次
第4巻の一部をご紹介します。
『キリスト教神学』 第4巻
(第42章「聖霊のみわざ」p.47-48より)
結局のところ、御霊は今日も特別な賜物を与えていると聖書が教えているかどうかは、実はたいして重要ではない。というのは、たとえ御霊が今日も特別な賜物を与えているとしても、賜物を追い求めて生きるべきではないからである。御霊が主権をもって与えるのであり、誰に与えるかを決めるのは御霊だけである(Tコリント12:11)。御霊が特別な賜物を与えることを選ぶなら、我々がそれを期待しようが求めようが、それと関係なくそうなさる。我々に命じられているのは(エペソ5:18)、御霊に満たされなさい(進行中の行為を示す現在命令形)ということである。これは、聖霊をどれだけ受けているかという問題ではない。我々はみな御霊を完全な形で得ているはずである。むしろ、御霊が我々の生活をどれほど所有しているかの問題である。一人一人が、聖霊に完全に生活を支配してもらうことを熱望するべきである。そうなったとき我々の人生は、神が得させようとしている賜物を、それが何であれ、明らかに示すものとなり、また神の力をいただいて、我々を通して神が示したいと望んでいるあらゆる実を結び、あらゆるわざを行う。前にも見たように、すべてのキリスト者に同じ賜物が与えられているわけではなく、ある賜物に他の賜物より意義があるということもない。そのことを忘れてはならない。
(第52章「教会の政治」p.278より)
そこで記述的な箇所を調べようとすると、二つ目の問題が見つかる。つまり単一の型式がないことである。一方に非常に民主的な諸要素があり、会衆制を擁護する人たちはその事実を指摘する。そうかと思うと、特に使徒が役職につく者を指名し任命し、諸教会を指導するという、強く君主制的な諸要素があり、監督制支持者はそれらの箇所を最も好む。さらに他の箇所から、長老が強力な役割を持っていたと結論を出すこともできる。
新約聖書の証言から最終結果を出すことはできないと言ったほうが安全であろう。新約聖書のどこにも、今日見られる十分に発達した組織に近い姿は見当たらない。当時教会政治は実際十分に発達しておらず、地域会衆は群れがかなり緩やかに結び合わされたものであったと思われる。かなりいろいろな政治上のまとめ方があったとしても無理はない。各教会はそれぞれの実情にあった形式を採用していた。
(第56章「終末論への序論」p.353-355より)
神学者、牧師が終末論をどう扱っているかを調べると、二つの対照的な傾向が見られる。一方に、終末論への没頭がある。神学的に保守派の人たちはこの主題に非常な興味を示してきた。特にディスペンセーション主義者は説教と教えの中で終末論を強調してきた。ある牧師が毎週日曜日の夜、ヨハネの黙示録からの説教を19年間行ってきたという報告がある! 終わりの時を詳しく描いた大きな図表を用いて、教えを増大することもある。現在の政治的、経済的出来事、特にイスラエル民族に関係したことが、聖書の預言と同一視される。その結果、ある説教者たちは、一方の手に聖書を、もう一方に新聞を持っている姿で風刺漫画に描かれる。ハル・リンゼイの『今は亡き大いなる地球』は、この手の「終末論熱中」の注目に値する例である。
これとは方向性と内容がずいぶん違う別の種類の終末論熱中がある。これは終末論を神学全体ととらえるアプローチである。キリスト教信仰を完全に終末的なものと見なすので、「終末的」という言葉が実質上すべての神学的概念に付けられる。終末論は新約聖書の「すべての繁みの背後に」見られるものとされる。しかしながら、このようなとらえ方に従う人たちの見解では、終末論の中心主題とは未来ではなく、新しい時代が始まっているという考えそのものである。古いものと新しいものとの間の緊張がしばしば強調される。「すでに、いまだなお」(already but not yet)という言い回しが一種のスローガンになっているほどである。
二つの終末論熱中の対極にあるのが「終末論恐怖症」とも呼べるもので、終末論を恐れたり嫌悪したり、少なくともそれについて話し合うことを避ける。ある場合には、終末論恐怖症は、聖書中の預言的資料すべてを明確に解釈し、歴史上の重要な事件すべてを聖書の預言と重ね合わせる者たちへの反動である。終末論をこのようにかなりセンセーショナルに取り扱う人々と同列に見られたくないために、この話題を全く避ける説教者や教師もいる。その結果、保守派の中には実質上ディスペンセーション主義しか選べない場合も見られる。他の見解を聞かされたことのない一般信徒の多くは、ディスペンセーション主義だけが終末論を正当に取り扱っていると考えるようになっている。さらに、終末論のあまり重要でない点が、正統派かどうかを見分ける基準とされている状況では、若い牧師の中には疑いをかけられないようにこの主題を完全に避ける傾向がある。また終末論を議論することが仲間内での娯楽になっている環境では、牧師の中には分裂を避けようと、千年期や大患難のことにはほとんど触れない。この点に関して、終末論に関する話題はグロッソラリアと変わらない。
終末論に関する課題の多くはわかりにくく、扱いづらい。そのためある教師や説教者はこの問題をただ避けて通る。キリスト教教理の講座を教えている教授の中には、いつも講義の予定より遅れてしまう人々がいる。その結果、千年期や大患難を扱う時間を取れたためしがない。同じように、新約学の教授はヨハネの黙示録のために時間を取るのが難しく、また旧約学の教授にさえ預言書に多くの注意を向けるよう時間を配分するのが難しいという人がいる。おそらくこれは単に編成と規律の問題であるが、時間が足りないことは好都合だと認めている講師は一人だけではない。
(「結びの短章」p.460より)
しかし、たとえ信じていることが純粋で正確であっても、それだけでは十分ではない。信じている内容の正しさや、神学を究めていることそれ自体は、主から見て価値がないからである。もしよければ、神学生と現役の神学者の集団がさばきの日に主の前に出て、マタイ7:22のように、次のように弁解している姿を想像してみてほしい。「私たちはあなたの名によって『キリスト教神学』を学んだではありませんか。あなたの名によってキリスト教の根本的な教えを詳しく説明したではありませんか」と。だが主は、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と答えるであろう。教理は重要であるが、その重要性は、我々と神との関係に貢献することにある。そのことがなければ、どんなにすばらしい神学がどんなに雄弁に語られても「やかましいどらや、うるさいシンバル」にすぎない。ここで強調していることは、我々の信仰(聖書の客観的教えに基づいた公的神学)は実践(いわば非公式の神学)に移されなければならない、ということである。もし我々の実際の行動を、信じていることに合わせるべきであるなら、それらの信じている内容について熟慮し、黙想もしなければならない。これはパウロが、「心の一新によって自分を変え」る(ローマ12:2)ことについて述べた際に意味していたことの一部ではないだろうか。
[全4巻の内容]
『キリスト教神学』第4巻 目次 第1巻第2巻第3巻第4巻
『キリスト教神学』 第4巻
森谷正志 [訳]
A5判 上製 横組 5,250円(税込)
現代アメリカ福音派陣営の主流を代表する組織神学者による神学書の決定版。
百家争鳴の難題 ── 聖霊論、救済論、教会論、終末論について詳説する。信仰生活に欠かせない知識を満載。巻末には全巻の聖句索引、語句索引を収録。
【第4巻の内容】
聖霊論/救済論/教会論/終末論/総索引


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