『ヤベツの祈り』がアメリカでベストセラーになっている。しかもキリスト教書籍の分野のみではなく、ニューヨークタイムズやUSAトゥデイのベストセラーリストにも上位五位以内に入っている。セキュラーな書籍と並ぶ中でヒットを続けている『レフトビハインド』シリーズには期待を裏切らない面白さがあった。ならば本書もと、立川福音センターに取り寄せてもらおうと思っていた矢先にこの原稿の依頼を受け、本を手に出来た。 ヤベツと聞いてすぐに思い浮かぶ人物はいなかった。モーセ、ハンナ、サムエル、ダビデ、ダニエル、パウロと、祈りの戦士の名はいくらでも並ぶが、ヤベツはその中にない。しかしそんなマイナーな人物から何を学ぶのだろうと、かえって好奇心をかきたてられた。 第1歴代誌の始めの9章にはアダムに始まるイスラエル民族の系図が延々と書き連ねてあり、無精者のわたしはここに来るといつも斜め読みする誘惑に駆られる。このカタカナの人名が続く中、4章9―10節に登場するのがヤベツだ。名前しか列挙されない中にヤベツについての記述があるのは注目に値するが、一方で全聖書中この2節にしか登場しないヤベツの生涯は具体的には知る由もない。 同書の第一章では、とかく見過ごしがちなヤベツにあえて関心を寄せるなら当然起こる疑問に焦点が当てられる。そして、著者はヤベツを「その業績によってではなく祈りによって、さらにはその祈りの結果受けた祝福によって今もなお人々の心に留められる、神のために生きた勇士」として紹介し、著者がヤベツの祈りを祈ることにより、人生を、また伝道の働きを革命的に変えられたと語る。興味津々である。 ヤベツの祈りはごく短く、四つの部分に分かれる。同書では2―5章でその祈りを一部ずつ掘り下げていく。どれも日頃の祈りに似通う、身近な祈りだが、その一つ一つにどんな秘密が隠されているのか。深く味わい、自分の祈りにするために、一日一章ずつ読み進もうと計画した。ところがいざ読んでみると、自己中心的に聞こえる最初の祈りこそ神がわたしたちに望んでおられ、答えたいと思っておられる祈りだという第2章に衝撃を受け、我慢できずに一気に最後まで読んでしまった。が、一日で読み終えても、各章が深く心に刻まれ、その後毎日、朝に昼に夕にと暗唱するのも簡単なヤベツの祈りを繰り返してはその意味の深さを味わっている。 自分の生活の必要に関わる願いばかり申し立てるのはクリスチャンとして未成熟の証拠のような気がし、心の底にある正直な祈りができない。神のために自分が大胆なことをしたいと思っても、身のほど知らずの祈りをして神にまであきれられたらたいへんとばかり、無難な祈り、ひかえめな祈りに抑えてしまう。わたしのそんな祈りの生活に、この本はチャレンジを与えてくれた。神はわたしの生活の隅々にまで関心を持ち、必要を満たしたいと両手を大きく開いて待っておられる。また主のために立ち上がりたいと願うごく平凡で非力な器を、神は整え、力を与え、用いたいと計画しておられる。一見謙遜に見えた今までの祈りが、実際には神の愛と主権に信頼することを妨げ、神が用意された豊かな備えを拒むという傲慢さの現れだったのだと気づかされた。 そして第6章では、ヤベツの祈りをぜひとも我が物に、と思わされる。天国に着いた時「あなたの人生を振り返ってみよう。わたしがあなたのために望んでいたもの、何度もあなたを通して成し遂げようとしたことを見せてあげよう。あなたはわたしにそれをさせようとはしなかったのだよ」と神に言われている自分の姿はなんと滑稽なことだろう。 へブル11章に列挙された信仰の偉人たちも、特別な聖人というよりは、ごく平凡な、ともすると見過ごされてしまいそうな人たちだ。しかし人の常識を越えて働かれる神に信頼していたからこそ勝利に満ちた人生を歩み、神からの栄誉を受けたのだ。そしてまた「神の恵み、超自然的な備え、まさに必要な瞬間に与えられる聖なる導きの御手、そうしたものに特徴付けられた生涯」をかの信仰の勇者たちは見出したのだと思う。 最終章での具体的な恵みを見るまでもなく、ヤベツの祈りが胸の奥深くからこみ上げて来る。誰もが得たいものが目の前にあるのに気づかなかったこと。祈りは信仰の篤い者だけの特権ではなく、誰でもいつでもどこでもできること。という具合に幸せの青い鳥は家にいたと気づかせてくれる本だからこそ、アメリカで一般の本に混じってベストセラー入りしたのかもしれない。そしてこの発見、この実践、この結果はアメリカ人ばかりでなく、全世界の神を知る者、知りたいと思う者すべての心の飢えを満たしてくれるものではないだろうか。 本書を手にして二週間。毎日折々に祈るわたしの「ヤベツの祈り」に、主は早くも誠実に一つ一つ答えを下さっている。まもなく翻訳出版されるという本書が、さらに多くの人の祝福につながることを願ってやまない。